「自分は人殺しと一緒です」無実を確信しながら死刑判決を書いた裁判官の告白【袴田事件と世界一の姉】

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巖さんとの再会

 2014年3月に半世紀ぶりに釈放された巌さんと熊本氏は、2018年1月に再会を果たした。当初、筆者は、熊本氏を浜松に連れて行こうと島内さんと相談したが、体力的にも難しく、断念したことがあった。急な再会を、筆者もマスコミも知らなかった。

 ひで子さんは「熊本さんは最初、こちらに来て謝罪したいとのことでしたが、お体が悪くて来られませんでした。ある日、巌が『ローマに行く』と言うから、私は今しかないと思い、『よし、今行こう』と福岡に連れて行きました。熊本さんはかなり衰えて、『巌、巌』と泣いて声をかけていました。巌は熊本さんが変わってしまい、よくわからなかったみたい」と話す。

 2020年11月11日、熊本さんは83歳で波乱の生涯を閉じた。前立腺がんが進行していた。島内さんに電話すると「3カ月くらい何も食べられず、水も飲めなかったようです。前の奥さんとの長男が来てくださり、彼らが帰った15分後に、笑ったような顔で亡くなりましたよ」と話してくれた。

「親を忘れても袴田君が死刑宣告でうなだれた姿を忘れた日はない」と語っていた熊本氏は、巖さんの再審無罪の朗報を見届けられずに世を去った。それでも彼の釈放、さらに再収監や執行がないであろうことを知り、再会できてから亡くなったことだけは救いだった。

司法試験トップ合格も東大出にコンプレックス

「袴田巖さんを支援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長が、熊本氏のことを振り返る。

「袴田事件の裁判官だったと連絡してきたが、まだ(会見をして)ニュースになる前で、本物かどうかわからなかった。本人に会って『免許証とかパスポートは持っていますか?』と聞いたが、『そんなもの持っていない』。ところが、あるものを出してきた。有名な元裁判官で弁護士の木谷明さんからのハガキでした」

 駆け出し裁判官の頃、木谷氏と熊本氏は机を並べていたことがある。熊本氏は「有名な碁打ちの木谷實の子供だぞ。『台湾から来たすごい弟子を見に来いよ』と木谷に言われたことがある」と山崎氏に話した。すごい弟子とは、囲碁界のスーパースター趙治勲さん(66)のこと。「司法修習生の時の名簿も持っていた。その2つで本物だと確信した」と山崎さん。

 熊本氏は「裁判官だからいつもお迎えの車が来ていて、免許証なんかいらない」と言った。巖さんの話よりも、自慢や酒の話が多かった。「自分の人脈をやたらに自慢したがる。佐賀県の役人だった自分のオヤジに似ていた」と山崎さんは振り返る。

 袴田事件について告白したことに関して、熊本氏は「最高裁判事になっても定年になった齢になったから」と話していたが、山崎さんは思わず「なんでもっと早く告白してくれなかったんですか」と迫ったという。

 さらに熊本氏は「東大出しか入れない刑事司法研究会に入っていた」と自慢した。静岡地裁の右陪席だった高井裁判官については、「あいつは早稲田出身だから駄目なんだ」などと罵ったという。学閥にこだわる人で、山崎さんが「東大出身でないことにコンプレックスを持っているのですか?」と聞くと、「そうだな」と認めたという。

「滅茶苦茶に記憶力がよく、書記官の名なども覚えていた。カラオケ好きで歌詞を見ないで400曲くらい歌えるそうです。巖さんは映画俳優の小林旭のファンでしたが、熊本さんは石原裕次郎のファンで、娘に裕の字を付けたそうです」と山崎さんは振り返る。

 羽振りのよかった時代を思い出したのか、「背広は銀座の英国屋でしか作らない」などと自慢した。ところが、背広のことで山崎さんが驚いたことがある。熊本は「福岡のデパートで作った背広に、尊敬する平野龍一さんの名を縫い付け、それを着て死のうと思っていたんだ」と明かしたのだ。

 平野龍一とは著名な刑法学者で東大総長も務めた。法学部出身者なら知る名前だろう。平野氏は当時、存命だったが、いくら尊敬されているとはいえ、他人が自分の名を縫い込んだ背広姿で自殺すればどんな気持ちになるのだろうか。幸い自殺は未遂に終わったが……。山崎さんは「熊本さんは女性には、ものすごいモテたみたいですよ」と羨ましそうに笑った。
(一部敬称略)

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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