「自分は人殺しと一緒です」無実を確信しながら死刑判決を書いた裁判官の告白【袴田事件と世界一の姉】

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自白調書は信用性も任意性もなかった

 袴田事件を担当した当時、熊本氏は29歳だった。

「(合議を行う2人の裁判官のうち)高井(吉夫)先輩は仕方ないが、石見裁判長はきっと僕と同意見になってくれるはず」と熊本氏は信じ、夜も寝ずに360枚もの無罪判決を書き上げた。裁判所は検察が提出した自白調書を、45通のうち44通を不採用とした。

「ほとんど僕が不採用を主張しました。信用性も任意性もなかったから」(熊本氏)

 本来、これだけで無罪判決のはずだった。しかし、合議で敗れ、有罪・死刑となる。

 熊本氏は「判決文は高井さん、書いてください」と言ったが、「主任が書くのが当たり前だ」と蹴られる。東京高裁にも問い合わせたが、「申し訳ないが」と頼み込まれた。判決は半年も遅れる。熊本氏は、こじつけ論理で有罪にしたことへのせめてもの抵抗で、判を押さなかった。仕方なく書記官が押した。

「ガクッと肩が落ちた。あとは何も覚えてない」

 熊本氏のもうひとつの抵抗が、判決文に添えた「付言」である。評議で「一字一句変えないでください」と訴えると、石見勝四裁判長は頷いた。判決は1968年9月11日。

「捜査官は被告人を逮捕して以来、極めて長時間取り調べ、自白の獲得に汲々とし、物的証拠に関する捜査を怠った。厳しく批判され、反省されなければならない……」と読まれた。異例だった。

 熊本氏は「控訴審の裁判官が付言の真意に気づいてくれることを祈ったんです」と振り返った。石見裁判長も「捜査方法は法の精神にもとり(中略)無法者同士の争いとして批判されるべきである」とまで言った。

 いよいよ主文宣告。

「石見裁判長から『極刑に処す』と言い渡された瞬間、ガクッと袴田君の肩が落ちました。私の頭は真っ白になりました。あとは何も覚えていません。下を見ていたのか。彼と目が合ったかどうかもわかりません。どんな経緯があったにせよ、石見さんが読み上げたのは私が書いた判決文だったのです。これで彼は絞首刑になるのです」(熊本氏)

 実は、熊本氏は初めて死刑判決を下したわけではない。東京地裁時代、合議で死刑判決を下したことがあり、熊本氏は死刑判決を下した4人の死刑囚に会いに行っていた。

「本人たちも判決には納得していた。(自ら判決を下した死刑囚に)会いに行く裁判官なんていませんが、どうしても会いたかったんです」(熊本氏)

 判決後すぐに巖さんに会いに行こうとしたが、拘置所の許可が出なかった。

「すぐに控訴するように言おうと思ったんですよ」(熊本氏)

 1976年5月、期待は裏切られる。東京高裁(横川敏雄裁判長)は控訴を棄却した。

「衝撃でした。ただ、横川さんも体力が衰えたのか、傍聴していても法廷で寝ていたりするので不安はありました」(熊本氏)

 1980年11月、最高裁で死刑が確定する。熊本氏は天を仰いだ。

「自分が書いた判決で袴田君は今日明日にも殺されるかもしれない」(熊本氏)

 熊本氏は情緒不安定になる。1969年、袴田事件で死刑判決を下したことを悔やみ裁判所を退官、弁護士登録(東京弁護士会)する。1970年に最初の妻と離婚。1974年に再婚し、新たな家庭では2人の娘をもうけたが、突然、怒鳴り散らしたりした。結局、2人目の妻とは、1990年に別れてしまう。

 2006年、流れ流れて先の島内さんの家で暮らし始めるが、何度も自殺未遂を図った。ノルウェーの北海で自殺を思いとどまった後も自殺願望は消えず、島内さんは「近所の西鉄の香椎花園(かしいかえん)前駅で電車に飛び込んで血だらけで運ばれたこともありました」と打ち明ける。

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