畠山重忠の「カッコ良すぎる名言」から分かる、鎌倉武士と江戸武士の価値観の違い
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、俳優中川大志さんが演じて人気を博した畠山重忠(はたけやましげただ)。その武勇と清廉さで「武士の鑑」と称され、番組HPでも「武士道をしっかり持っている男」と紹介されている。
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ところで一口に「武士道」と言っても、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した中世武士と、江戸時代に活躍した近世武士とでは、それが意味する価値観は大きく異なっていた。
人気歴史学者・呉座勇一さんは、新刊『武士とは何か』で畠山重忠の事績を紹介しながら、「武士道」について考察している。その一部を再編集して紹介しよう。
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中世武士の心性、価値観は、知られているようで意外と知られていない。世間一般に普及している武士像は、江戸時代の武士から生み出されたものだからである。
江戸時代に佐賀藩鍋島家に仕えた山本常朝(つねとも)の談話を記した「葉隠(はがくれ)」には、江戸時代の武士の一側面がよく示されている。同書は「武士道と云(い)ふは死ぬ事と見つけたり」の名言で知られ、武士道のバイブルと評される。しかし、その過激な一節とは裏腹に、平和な時代を生きる武士への処世術指南書という性格が強い。
「葉隠」の最大の特徴は、主君への絶対的忠誠の強調である。「御懇(おねんごろ)にあらふも、御情けなくあらふも、御存じなさるまひと、それには曾(かつ)て構わず、常住御恩の忝(かたじけな)き事を骨髄に徹し、涙を流して大切に存じ奉る分也」「無二無三に主人を大切に思へば、それにて澄むこと也」と記されている。
主君に厚遇されようと冷遇されようと、主君の御恩に感謝し、主君を大切に思えというのだ。しかも同書は、主君に諫言(かんげん)しても受け入れられない時は主君の味方をすべきだとまで説いている。
中世と江戸の違い
この主張は同書が著された江戸時代中期の価値観が反映されたものである。戦乱が絶えて主従関係が安定化し、武士がサラリーマンのようになっていたからこそ、主君への絶対の忠義が要請されるようになった。この太平の世における武士の倫理を、戦国時代以前に遡及(そきゅう)することはできない。
たとえば室町―戦国時代に成立したと推測される書物「世鏡抄(せきょうしょう)」には「複数の主人に仕えている者や、よそから移籍してきた侍は、万一の時は懸命に戦い、主人からの恩賞に注目せよ。3年の間に恩賞が与えられなければ、別の主人に仕えよ」という処世訓が見える。
主人からどんなに理不尽に扱われようと、ひたすら主人に忠義を尽くすといった「武士道」的観念とは無縁のドライな契約関係といえよう。
中世武士の自尊心
こんな話もある。源頼朝の御家人に畠山重忠という猛将がいた。一の谷の戦いの「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」で愛馬を背負って坂を下ったという伝説(「源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)」)が作られるほど怪力だったらしい。
鎌倉幕府の歴史を記した「吾妻鏡」によると、ある時、重忠の代官が不正を犯し罰せられた。重忠も謹慎処分を受け、そして「『代官が勝手にやったことで何も知らなかった自分まで処罰されるのはおかしい』と憤った重忠が謀反を企てている」とのうわさが流れた。
鎌倉に召喚され、頼朝側近の梶原景時(かげとき)から取り調べを受けた重忠は、うろたえるどころか「謀反を起こすと思われるのは、むしろ武士にとって名誉(眉目)なことだ。しかし俺は頼朝様に忠誠を誓ったので謀反は起こさない」と言ってのけた。
誓約書を出せという景時の要求も、「俺は今までウソをついたことは一度もない。その俺が謀反の気持ちはないと言ったのだから、それで十分だろう」と突っぱねた。頼朝は重忠の言葉を信じ、沙汰やみになったという(「吾妻鏡」文治3年11月21日条など)。
中世武士の価値観では、不当な扱いを受けても唯々諾々と主君に従う武士は、単なる腰抜けにすぎない。仕えるに値しない主君には謀反を起こすことも辞さない独立心と自尊心の強い武士(曲者ともいう)でなければ、合戦の役には立たないのである。
重忠が残した名声
重忠は、その最期も「坂東武士の鑑」と呼ばれるにふさわしいものだった。3代将軍源実朝(さねとも)の時代、重忠の力を恐れた北条時政は重忠に謀反の嫌疑をかけ、討伐軍を派遣した。
時政の息子の義時は「重忠は頼朝様から厚い信頼を受けた忠臣で、父上の娘婿として比企(ひき)氏討伐でも活躍しました。軽率に殺しては後悔することになります」と言って重忠討伐に反対したが、抗しきれず、討伐軍の大将になった。
さて、鎌倉で謀反が起きたので急ぎはせ参じよと親戚の稲毛重成(いなげしげなり)から連絡を受けた畠山重忠は、兵を率いて鎌倉に向かった。ところが重忠は、二俣川(ふたまたがわ)の付近(現在の神奈川県横浜市旭区)で、息子の重保が鎌倉で謀殺されたこと、自分が謀反人として討伐されようとしていることを知った。本拠地に引き返して態勢を立て直すべきとの意見を退け、「逃げるところを討たれた梶原景時のような末路をたどりたくない」と幕府の大軍に真っ向から突撃し、華々しい戦死を遂げた。
重忠を討った後、鎌倉に帰還した義時は、「重忠の弟や親戚のほとんどは他所にいて、重忠に従っていたのはわずか100人余り。やはり重忠が謀反を企てたという話は偽りだった」と時政をなじった。重忠は冤罪だったという評判が広まり、窮地に陥った時政は、重忠を陥れた罪を着せて稲毛重成を殺した。このことが時政失脚の伏線となった。
「謀反のうわさを立てられるのは名誉なこと」と言い放った重忠は、皮肉にも謀反のうわさによって滅んだ。しかし、その名声は現代まで輝き続けている。
※『武士とは何か』より一部を再編集。