【梨泰院の惨劇】「400kgの荷重」と「人間の粒子化」という群衆雪崩のメカニズムを東大教授が解説
10月29日の夜、韓国の繁華街・梨泰院(イテウォン)の路地で156人が圧死する雑踏事故が発生した。「群衆雪崩」が起きたものと推測されているが、いったいそれはどのようなものなのか。
この一件について、多くのニュース番組で解説を求められているのが、東京大学先端科学技術研究センター教授で、群衆雪崩や渋滞のメカニズムを研究している西成活裕さんだ。
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西成さんの著書『渋滞学』(新潮選書)では、2001年に起きた明石市の花火大会での事故を取り上げ、群衆雪崩のメカニズム、群集心理の研究などについて解説を試みている。同書から、一部を再編集してお伝えしよう。
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明石歩道橋では1平方メートルに15人が
集団が極端な密集状態になってくると、ほとんどの人が不安と恐怖を感じ、実際に生命にまで危険が及ぶことがある。その例が2001年7月21日に発生した、明石市大蔵海岸花火大会において11人が死亡した事故である〈図1〉。
花火大会の会場である海岸から駅までは、約100mの歩道橋を渡らなくてはならなかった。その結果、大勢の人たちがこの歩道橋に押し寄せ、狭い通路内に会場に行く人と駅に向かう人の双方向の流れができた。通路内は徐々に過密状態になり、動ける列がほとんどなくなったにもかかわらず、通路の両端からは人がどんどん入って来た。警察や警備員の適切な対応がなかったこともあり、結局惨劇が起こってしまった。
死者が出た場所は、図の海岸側の歩道橋部分で、L字のコーナーのあたりである。そこでは1平方メートルの面積に15人ぐらいいたのではないかという驚くべき調査結果が出た。その後の検証シミュレーションでも、10人以上の人口密度になっていることが確認された。四方八方から押されてこのように局所的に密度の高い領域が発生したのだろう。
通常は1平方メートルに5人ぐらいで危険な状態になり、将棋倒しの状態が起きる。そのさらに3倍もの人が一時的に圧縮状態になったわけで、そのときに人が感じた力は1平方メートルあたり約400kgという、とてつもない大きさだったらしい。これは現場付近の300kgの荷重に耐えられる手すりが壊れていたことから判明したことだ。医学的には約200kgで人間は失神するといわれており、その力のすさまじさがわかる。
将棋倒しは文字どおり、ある1方向から力がかかることで、ただその方向に倒れるものだが、この事故のような超高密度状態になると、今度は「群集雪崩(なだれ)」といわれる最悪の状態が発生し得る。
この群集雪崩のメカニズムはきちんとわかっているわけではないが、高い圧力状態のときにどこかにたまたま低い圧力部分が生まれると、そこに周囲の圧力で人がどっと流れ込むことで起きるらしい。したがって内部での様子は将棋倒しと違ってかなり複雑で、様々な大きさと方向を持った力が急に押し寄せてくる状態だ。たとえば人の押し合いにより、たまたま倒れてしまったり体が浮き上がって他人の上に出てしまうと、そのすきまに人が入ってきて倒れこんでしまう、といったことが想像できる。
後楽園球場での恐怖体験
私も群集雪崩寸前の危険な体験をしたことがある。高校生のときに後楽園球場で行なわれたテレビ番組の「ウルトラクイズ」に出たときのことだった。全国からたくさんの高校生が集結し、まさに会場周辺で大群集を形成していた。第1問目は会場の外に問題が貼り出されており、その答えのイエス、ノーに応じて一塁側と三塁側にわかれて座るという企画だった。問題は忘れてしまったが、イエスかノーか迷う人で後楽園球場の周囲はごった返し、走る人や立ち止まって皆で相談している人などが入り乱れていた。
制限時間が迫ってきたとき、私は一塁側の入り口付近でたくさんの人に囲まれてまったく動けなくなってしまった。直前で三塁側に変更しようとしている人などもいて大混乱し、そのうちに周囲の人が全員密着状態になった。
係員が何か叫んでいるがまったく聞こえない。周囲からは悲鳴があがり、自分も圧迫感で気が遠くなりそうになった。そのときに感じたのは前後左右あらゆる方向から不定期にグイグイ押される、かなり強い散発的な力だ。どこかの数人の塊が倒れそうになってまた耐えて元に戻り、という状態がいろいろなところで発生しているのが見えた。まったくコントロール不能で、そこにいた人は全員生命の危険を感じていたにちがいない。
群集雪崩を思うと、いつもこれらの当時の記憶が蘇りゾッとする。また、このようなイベントだけでなく、日常生活でも朝のラッシュ時の満員電車など似たような危険が潜んでいるのはいうまでもない。
密着状態ではニュートン粒子になる
密着状態で自分ができることといえば、他人からなるべく圧迫を受けないような体勢や場所を確保するぐらいであり、体をちょっと回すくらいの動作しかできない。この状態では人の動きはほぼニュートン粒子的だといえる。ここまで群集の密度が上がってしまうと、人がお互いに及ぼす力は直接押し合うものが支配的になるために、作用=反作用の法則が適用できるようになる。したがって逆に高密度の群集は従来の物理の力学的な手法でその運動をある程度解析できるだろう。
〈図1〉の明石の事故のシミュレーションは、これから述べるフロアフィールドモデルではなく、粉粒体を計算する「個別要素法」という方法により、大阪大学の辻裕教授によってなされたものだ。粉粒体とは後の章でも述べるが、読んで字のごとくパチンコ玉のようなつぶつぶ状の集まりの名称で、自己駆動粒子でなくニュートン粒子だ。
明石の事故当時ぐらい密集した状態では、人はもはやニュートン粒子に近くなるため、粉粒体として考えた方がうまくゆくのだ。確かに人が密集してそのうちに浮き上がって人の上に人が乗るような現象は、パチンコ玉のようなものの塊を周囲からぎゅっと押したときに起こる現象に近い。
群集には3種類ある
一人の人間の社会行動は複雑で、それを粒子として扱って運動を考えるなどというのは到底できないだろうが、多数が集まると自由が抑制されて単純な行動しかできなくなることがよくある。このような状態での人間の振る舞いや心理を研究するのが群集心理学だ。
そもそも群集というものを初めて学問的対象としたのは、フランスのル・ボンという人である。彼は1895年に著作『群衆心理』において、群集の特性について分析し、その強大なエネルギー、衝動性、無批判性、道徳性の低下、知性の低下などを初めて指摘した。
またフロイトも、集団の中の個人は抑制がきかなくなって本能のおもむくまま獣のように自らの欲望を最大限満たそうと行動する、と考えた。確かに集団になると個人では考えられないような狂気的な犯罪事件が起きることがあるが、それはもともと人間の持っていた欲望が、集団になることで殻がとれて顕在化した、とフロイトは考えていた。
群集の定義とは「共通の関心や注意を引く対象にむかって特定の場所に集まった諸個人の一時的、偶発的な集合状態」というものだ。これによれば、単なる人の集まりは群集とは呼ばない。そこに何か共通の動因が発生したときに群集になる。その意味では、ただのランダムな粒子の集まりは群集ではない。その個々の粒子が何か共通の意思や方向性を持ったときに群集となり特徴的な集団運動を示すようになる。ただのランダムな粒子の集合状態ならば従来の統計力学で扱える範囲かもしれないが、そこに共通の動因が入ると自己駆動粒子系としての特色が出てくる。
群集の状態はその動因によって「会衆」「モッブ」「パニック」の3通りに分類できる。「会衆」とは興味の対象への直接行動には訴えず、むしろ受動的関心から集まっているもので、音楽会や劇場に集まる群集などがその例である。
これに対して「モッブ」は強い感情状態に支配され、抵抗を押しのけつつ敵対する対象に直接暴力的に働きかけるものだ。集団テロ、襲撃などがその極端な例である。
「パニック」とは、予期しない突発的な危険に遭遇して、強烈な恐怖から群集全体が収拾しがたい混乱におちいるような場合で、劇場やホテルでの火事や客船の沈没などがこの例である。パニックの場合は、対象に対して逃避的な行動をとるが、モッブは攻撃的行動を示す。そして、状況の変化で、会衆がモッブ化したり、モッブがパニックに陥ったりすることもある。
また近年ではインターネットが普及したため、新たな仮想世界での群集が形成されるようになった。これまでは人の集団といえば、人が本当にある場所に集まっていたのだが、現在ではホームページの掲示板などを通して仮想的に大人数が集まることが容易になった。お互い顔も年齢も知らない人同士が、共通の興味のもとに集合する状態が簡単に形成される。そしてもしもその群集が現実に集結すると、群集心理により短絡的な行動をとってしまうような事件も発生する。集団自殺、暴行傷害事件など最近新聞を賑わすような事件のうち、インターネットが絡んでいるものが確かに増えてきている。
このように群集については100年以上前から現在にいたるまで研究されてきているが、本書で述べているような物理学的アプローチによって捉えようとする動きはここ10年程度の新しい研究だ。自己駆動粒子である人間が他者から受ける群集心理的な力をルールベース的な手法を用いて考える。この力はニュートン力学のようにきちんと見積もることはできないが、状況を限定すればある程度扱ってゆくことが可能だ。
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梨泰院の事故では、現場から事故発生の4時間前の段階で、警察にSOSが寄せられていたという。事故予防のためには、群集が「渋滞」を引き起こした際の恐ろしさについて市民も行政も認識を深める必要がありそうだ。
※『渋滞学』一部を再編集。