金正日は真夜中に鹿を撃つアントニオ猪木をこっそり見ていた…平壌市民38万人を集めたプロレス興行秘話

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経費は8千万円

 その時は、平壌市内などいろいろな場所を案内されました。中でも一番印象的だったのは、金日成の遺体が安置されている錦繍山記念宮殿に連れて行かれたこと。亡くなって2カ月しか経っていないから、日本人で彼の遺体を見たのは私と猪木が最初かもしれません。

 遺体が安置されている廟に入るまでに、3回も消毒させられたことには、とにかく驚きましたね。ゲートを通る度に、プシューッと霧状の液体が噴射されるんだけど、あれで洋服に付いた菌が全部除去されるのだとか。その後、花に囲まれ、透明のケースで覆われた遺体の周りを一周しました。私も猪木も「スゲエなぁ」と咳いていた。

〈こうしてプロレス興行は、95年4月28日、29日の2日間にわたって開催されることになった。イベントの正式名称は「平和のための平壌国際体育・文化祝典」。会場は、平壌の綾羅島にあるメーデースタジアムである。〉

 イベント開催までの7カ月間は、1カ月に1回のぺースで平壌へ打ち合わせに行きました。私のカウンターパートは金容淳の下にいた李種革(リジョンヒョク)と現在、IOC(国際オリンピック委員会)委員の張雄(チャンウン)の二人。ただ、猪木は打ち合わせに参加するというわけではなかった。イベント前にプロレスがどういうものか知ってもらうため、テレビでプロレスの映像を流してもらうなどしていた。それもあって、朝、猪木が平壌市内を一人でランニングしていると結構、注目されてね。“走る広告塔”みたいなものでした。

 北からは一銭の資金提供もありませんでした。報酬も一切なし。イベント前に金容淳から「将軍様からのお土産」として、金正日のサイン入り青磁の壺をもらったくらいですね。

 何しろ、イベントの時、向こうの厚意でビデオを撮ってもらったが、そのテープ代を請求されたほどです。

 それくらい、あの国はケチだった。ですから、お金の工面には一番苦労しましたね。結局、北海道の朝銀から2億円借りましたが、選手のギャラや渡航費用など、総額8千万円の経費がかかりました。

 残りのカネは、新日本プロレスの運転資金として使った。しかし、猪木はカネのことにはノータッチ。私が何とかして返済するしかありません。そこで、興行から半年くらい後、新日とUWFの対抗戦をやることにしたのです。これが大当たりし、一晩で3億円くらい儲かって、2億円も一括して返済することができました。

 当然、向こうにはプロレスのリングもありませんから、丸ごと新潟港から万景峰号で運びました。特に、メーデースタジアムは天然芝なので、それを傷めないよう全面にラワン板を敷くのが大変だった。浜松の業者に頼んで、ラワン板だけで2千万円もしました。

 その後、聞いた話では、そのラワン板は、興行が終わると、平壌市内の劇場やサーカス場の補修に使われたそうですよ。

 北が唯一、用意してくれたのがスタジアムのオーロラビジョン。「プロレスを全ての席から見るにはオーロラビジョンが必要だ」と話したら、その日から5日後にはヨーロッパから輸入して、突貫工事で取り付けてしまったのです。

 あと北に誰を連れて行くか、人選も手間取った。新日本プロレスのメンバーは、皆、嫌がっちゃってね。橋本真也も佐々木健介も、初めは「人質なんかに取られたら日本に帰れなくなる」と言っていた。その上、アジア人がアメリカ人をやっつけるところを見たいわけだから、イベントにはアメリカ人のレスラーを呼ばねばならなかった。

 金容淳からは「アメリカのスターを連れて来てほしい」というリクエストがあった。恐らく、これは金正日の指示だと思うんだよね。具体的には、向こうからマイケル・ジョーダンやマドンナの名前が挙がった。しかし、我々にはそんな大物を呼べるつてはない。そこで、ボクシングのモハメド・アリを呼ぶことにしたのです。

 76年に猪木とアリが対戦して以来、没交渉でしたが、米国のプロレス団体WCWのE・ビショフ氏の仲介もあって、二人は再会しました。

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