誰も教えてくれない“定年後の10万時間の過ごし方” 知らないと後悔する「読まずに死ねない名著」
もし、定年退職したら、子どもが巣立ったら――。その後の人生の過ごし方に思いを巡らせる方は多いだろう。
65歳以上の高齢者の1日の生活時間をみると余暇時間は1日の3分の1を超えており〈※1〉、定年後の20年間には6万時間の自由時間があるという。つまり100歳まで生きられたら10万時間を超えるのだ。
時間を持て余してぼんやりと生活を送り“退屈地獄”に陥るのを回避するために新たな趣味に挑戦するのも魅力的だが、高齢者の趣味第2位の「読書」〈※2〉なら自分にもできるという人は多いのではないだろうか。
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「老年の読書は、みずからの老いをどう生き、どう死を迎えるかに直結しています」と語るのは、著書『老年の読書』が話題の前田速夫さん。この秋で78歳になる文芸誌の元編集長だ。武者小路実篤をはじめ、数多くの文豪、大作家を担当してきた。
古代ギリシア・ローマのテオプラストスやキケロなどの文人・哲学者から現代日本の山田風太郎や古井由吉などの作家まで、老いと死について綴られた数多くの名著50冊以上を、自身も老境を迎え闘病も体験した著者が選りすぐって解説を加えた「老年による、老年のための読書案内」――そんな趣の同書について、執筆の動機や内容、そしてこれから「老年の読書」を楽しもうとしている人へのアドバイス等を聞いてみた。
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――学生時代の「青春の読書」や、中年ビジネスパーソンの「仕事に効く読書」というのはよく聞きますが、「老年の読書」というのは珍しいのでは。どういうところから着想されましたか?
前田:もう10年近く前、旅先で急に腹が痛んで路上にしゃがみこんでしまったことがあります。その時は宿に戻ってしばらく横になっていたら治まったのですが、半年ほど経ってどうも胃のあたりがしくしくするので、かかりつけの医院でそのことを告げると、触診したとたんに医師の表情が変わり、翌日に地元の総合病院で精密検査を受けて、いきなりステージ4のがん患者ということになりました。
――元気な60代だったのが、思いもよらぬ展開に。
前田:まず急を要する患部を切除し、半年後に抗がん剤で半減した部位の患部を切除して、どうやら命拾いをしました。
――長く文芸誌「新潮」で編集の仕事に携わり、編集長も務められましたが、その後は……。
前田:定年退職後には在野の民俗研究者に転身して、書きかけのものをいくつもかかえていました。退院すると、残された時間を考えて、書斎や書庫の断捨離をしました。
――読書案内の本を書く前に、資料の断捨離ですか?
前田:民俗の調査・研究に必要な本と、長年愛読した文芸書、思想書、哲学書や各種の全集以外は、思い切って処分しました。そして、これからの長くはない日々、これだけはもう一度しっかり読んでおこうと思った本をより分けて、書斎のすぐ手の届く棚に並べ、時おりページに目を落とすようになりました。
――若い頃に読んだ名著を厳選して再読したということですか。
前田:その時は76歳になっていて、同じ本なのに、若い頃とは身に沁み方、響き方が違う。比べると、初読では単に読み上げただけで満足していたようです。「教養としての読書」と、「死を前にした老年の読書」の違いでしょうか。
――退職後はどのような読書をしていたのですか?
前田:たまたま某私立大学の非常勤講師をやらないかと言われて、それまで読みたくても読めなかった日本の古典を扱うのでよければと、『古事記』から『南総里見八犬伝』までを読んで講義し、加筆して『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』(2012年)という本にもまとめ、楽しい思いをしました。今回はそれとは違って、主に若い時に読んだ本を再読、三読して、ここぞというところを抜き出して、いくつか勝手な感想を付けました。
――たとえば、どのような形で紹介を?
前田:自分が病気をしたことから一例を挙げるなら、小説家の高見順(1907-65)が56歳の時、食道がんを宣告されて入院し手術をした。その翌年に「群像」に発表した『魂よ』という詩があります。
魂よ
この際だからほんとのことを言うが
おまえより食道のほうが
私にとってはずっと貴重だったのだ
食道が失われた今それがはっきり分った
今だったらどっちかを選べと言われたら
おまえ 魂を売り渡していたろう
(『魂よ』、『詩集 死の淵より』所収、講談社文庫、1971年)
これは詩の一部ですが、こう言いたい気持は分かりすぎるくらいで、高名な作家にしては、あまりに平凡な感想と言ってもいいくらいなものです。しかし、福井県知事の庶子として生まれて、生前は実父に会うこともなく、実力でエリートコースを歩んだインテリながら、大正末期以来のさまざまな動乱にもまれ、思想遍歴を重ねて、その苦悩と自虐をヘドを吐くようにして書き続けてきた作者のことを思うと、この正直な告白は胸を打ちます。
――文芸誌の仕事で接した作家たちのエピソードも書かれています。
前田:川端康成(1899-1972)さんが最後の作で未完となった『たんぽぽ』を連載中だった時、たしか京都だったと思いますが、定宿にしているホテルの喫茶室でさんざん待たされたあげく、ようやく書き上げた、ほんの数枚の原稿を手に現れた川端さんに、いま思えば冷汗ものの言葉をかけてしまったり、宇野千代(1897-1996)さんのお宅に原稿を頂戴に行って、当時70歳を過ぎていた宇野さんのみずみずしい姿態に見とれてしまったことなど、墓場まで持っていくつもりの思い出をつい書いてしまいました。
――最初の質問に戻りますが、「老年の読書」は青年の読書、中年の読書とどう違うでしょうか。
前田:私のことで言えば、勤めを持っている身だと、なかなか自分だけの読書の時間が取れなかった。定年退職後、教養や仕事のためといったことではなく、これからは好きなだけ本が読める、しっかりした内容の本とじっくり向き合うことができると、これまで封印してきた思いを、のびのびと解放できた時の嬉しさは何物にも代えがたいもので、これぞ「老年の読書」の醍醐味と感じたわけです。
――本書では、それを読者にも奨めたいということでしょうか。
前田:そもそも読書は人に奨められてするものではないと思います。自分で気に入った本を見つけて、好き勝手に読むからこそ、喜びも深いのです。けれども、大小の書店が軒並み閉店し、近くの図書館にでも行かないと、じかに本に接することも難しくなってしまった今、せめて書名、著者名ぐらいは知っておかないと、ネットで本を探すことすら覚束(おぼつか)ないと思って、良い本を探す一助になればという気持ちです。
――老境を迎えたり、そこまでいかなくとも老いを意識する年齢の読者は多いと思います。そのような読者にとって「老年の読書」の意義はどういうところにあるでしょうか。
前田:私ぐらいの年になると、深夜床に就くとき、あるいは昼間起きていても、1日に1度は自分が死ぬときのことを考えています。認知症が進んだり、病気のため意識が朦朧(もうろう)として、息を引き取ることを自覚できないなら、それはそれで構わないけれど、少しでも意識があるなら、その時間をどう過ごすのか、大いに不安だし、また興味深くもある。老いと死は、どんな偉人にも、どんな平凡な人間にも、100パーセント間違いなく訪れる。その老年をどう生き、この世との別れをどう済ませておくか、これはなかなかの難題です。さればこそ、古今の名著をひもといて、偉人達人の境地に一歩でも半歩でも近づきたいと思ったのです。老年の読書は、みずからの老いをどう生き、どう死を迎えるかに直結しています。そのことを考えるのに、本書がいくらかでもお役に立てれば幸いです。
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より善い老いを迎えるためには、健康、お金、家族や友人との良好な関係などが重要だとよくいわれる。定年後の数万時間を有意義に過ごすためには、そこに「読書」を加えてもよいのかもしれない。
〈※1 出典:「令和3年社会生活基本調査」総務省統計局(https://www.stat.go.jp/data/shakai/2021/kekka.html〉
〈※2 出典:「統計からみた我が国の高齢者(65歳以上)」総務省(https://www.stat.go.jp/data/topics/pdf/topics103.pdf)〉