プロ野球分裂の危機を救った小林繁 「江川事件」でトレードされた瞬間のエピソード(小林信也)

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後楽園二番勝負

 私にとって小林繁は、移籍の約5年前、73年の終盤に突如現れた「無名の英雄」だった。

 9連覇を目指す巨人は阪神、中日と激しく競り合っていた。5試合を残して2位阪神に僅差の首位。10月10日、11日の阪神との“後楽園二番勝負”が天王山といわれた。10日は5対1とリードしながら、阪神・田淵に逆転満塁ホームランを浴びて敗れ2位に落ちた。

 もう負けられない11日は、初回に4点、2回に3点を奪われる。序盤に7点のビハインド。しかも2回の守備でサード長嶋がゴロを右手薬指に当て退場。骨折でその後のシーズン出場は絶望的となった。悲壮な空気の中、終盤も点を取り合い、10対10で9回に入った。そこでマウンドに上がったのが小林だった。高2の私は野球部の練習がテスト休みだったのか、自宅でラジオにかじりついていた。

(小林?)

 その名を聞いたとき、V9を半ばあきらめた。異様な重圧が漂う9回表、猛虎打線を無名の新人が抑えられるわけがない……。ところが、小林は見事に抑えた。

(すげえ、小林ってすごい)

 私の中で、姿を見たことのない小林繁が、途方もない英雄になった。

 その試合、小林は2番手で投げるはずだったが、堀内が初回にKOされ予定が変わった。急遽玉井が登板。関本、倉田、高橋善が8回までつないだ。9回はもう小林しか残っていなかった。

 小林は、次は自分かと何度も肩透かしを食らい、首を長くしていた。後にサンケイスポーツ田所龍一記者の取材にこう答えている。

「出番が後ろへ、後ろへとまわされていくうちに緊張感も薄れた。というより、だんだん腹が立ってきて、マウンドに上がったときには怒っていたんだ」

 大事な試合を引き分けでしのいだ巨人は2位で最終戦に臨み、阪神を9対0で倒し、逆転優勝を飾った。小林の快投がなければV9は断たれていた。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2022年10月27日号掲載

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