何もかもが見えすぎる社会は人を幸せにしない――與那覇潤(評論家)【佐藤優の頂上対決】
歴史の対義語は「検索」
與那覇 そうした変化をもたらしたネットのテクノロジーの中で、最大のものが「検索」だと思います。実は僕は、歴史の「対義語」は検索ではないかとすら考えているんです。
佐藤 普通は検索で過去の出来事を参照しやすくなったと考えませんか。
與那覇 検索とは「いま」の問題意識をもとに用語を入力して、都合のいい情報を過去から引っ張ってくる営みですよね。だから歴史を参照しているように見えて、実は「現在の視点から切り取られた」過去しか出てこない。典型は人を叩く時です。何か問題発言をした人がいると、「昔も似た発言とかしていないかな」とみんなが検索し、個々の文脈を無視して「こんなにあったぞ!」と羅列する。そして差別者の烙印を押し、「問題外だからこの人のことは今後無視しましょう」として、今度は過去の探求を封鎖するわけです。コイツは悪者だとする「いま」の評価を恒久化するツールなんですね。
佐藤 烙印を押すという目的さえ達成すればいい。
與那覇 そうなんです。だから検索によって、過去や歴史はなくなり、すべてが「現在」になっています。
佐藤 いまなら烙印ブームの絶頂にあるのが旧統一教会ですね。
與那覇 まさに大ブームですよね。
佐藤 議員との関係を問題にしていますが、私は果たしてこれが政治と宗教の問題なのか、と思いますね。国家が特定の宗教を優遇、もしくは忌避することはあってはなりませんが、宗教団体が政治運動をすることは規制されていません。
與那覇 おっしゃる通りです。
佐藤 社会通念に照らしておかしなことをしている団体は、その行為に応じて法的責任、社会的責任を負うべきで、政治家はそういう団体との関係には慎重であらねばならない。だから切り口は、政治と宗教じゃなくて、政治倫理だと思うんです。
與那覇 30年以上前がピークだった統一教会の問題行為が、安倍元首相の射殺犯の供述をもとに「いま」盛んに検索されて、一部の論者が「教団を解散させろ」とまで主張しているのは危ういと思います。「後から」注目されて、その時の民意の気分で宗教法人を解散させられることになると、実質的には信教の自由が存在しないのと同じになってしまう。
佐藤 そもそも近代法は、内面には立ち入らないところがポイントで、思想信条の自由は、持っている内心を言わなくていいということです。
與那覇 誰であれ信仰の告白を「強制されない」ということですね。
佐藤 そうです。ところがいま起きているのは、統一教会とは関係がないという信仰告白の強制なんですね。
與那覇 その政治家が全体としてどういう人かは見ずに、ただ統一教会との接点だけを見て「踏み絵」を迫る。SNSの炎上でも相手の主張を読まずに「誰それと交流していた時点でダメだ」といった論法がありますが、国政がそれでは困りますね。
佐藤 しかもこれはブームでしかなく、何か起きたら次のブームが生まれてくるわけです。
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