妻がとつぜん失踪して9年… 「僕の不倫のせいなのか」と苦悩する44歳男性“波乱の家族史”
「家族に恵まれない人生だったなあ…」
以来、咲紀子さんからは連絡がない。家族を捨て、子どもたちを忘れてどうやって暮らしているのかを彼は知りたくてたまらないという。責めるつもりはない。もう一度、姿を見せてほしいと彼は願っている。
「咲紀子とまた暮らしたいとは正直言って思えない。ちゃんと会って話して、この長い時間を埋められれば気持ちが変わるかもしれませんが。もっと本音を言えば、僕、もう人の何倍も生きてきたような気がする。疲れました」
疲れても、子どものためにはがんばるしかない。それが自分を認めて育ててくれた、咲紀子さんの父親へのせめてもの恩返しだと思うからと彼は言った。
「僕の父と養母は数年前に離婚したそうです。家族には恵まれない人生だったなあとつくづく思います」
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咲紀子さんはいつか戻ってくるかもしれない。“家族”の重さや価値は人それぞれ違うだろう。家族を拒否するような生き方も、家族は心の支えだとする生き方も、それは個人の選択だ。淳也さんのように家族に振り回される人もいる。“運命”だと諦めて自分の環境を受け入れるのか、抗って闘うのか。それもまた選択と決断を繰り返していくしかないのだろう。
今年5月には、1977年に行方がわからなくなっていた男性の所在が45年ぶりに確認されたというニュースがあった。行方がわからなくなった当時は26歳で、「発見」時は71歳。その間何をしていたかなどの詳細は明らかにされていないが、北朝鮮の拉致の可能性も指摘されていた人物だった。
この男性は自分が行方不明者になっていることを知らなかったそうだが、咲紀子さんは、なぜ行方をくらませたのか。本当のところは彼女にしか分からないが、やはり淳也さんと優子さんの関係を知ったことがきっかけなのではないかと察せられる。咲紀子さんからしてみれば、夫と関係をもった親類が、そのまま自宅に入り込み、子供の親代わりをしているわけである。もしかすると、失踪中にもその様子を知る機会があったかもしれない。
淳也さんは、妻がいなくなったあと、あっさりと優子さんを家に迎え入れている。そしてまた、自身と優子さんとの関係に失踪の原因があると思い至るまでに、年月を要している。また優子さんが止めなければ、行方不明から3年以上が経過しての離婚手続きも行おうとしていた。咲紀子さんが帰りやすい環境を作ろうとはしていない。そこにはもしかすると、幼少時代の経験からの家族像、家庭像が影響しているのかもしれない。
淳也さんは唯一、亡き義父のことを思って、子供のために生活を続けている。彼の人生に本当の意味で「家族」といえる人がいるのならば、それは義父だったのだろう。
淳也さんはいま44歳で、咲紀子さんはさらに若い。これからも続く人生を、誰と、どう過ごすことになるのだろうか。
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