「不毛な論争」の重要性 “分断のない社会”は気味が悪い(古市憲寿)
9月27日、安倍晋三元総理の国葬儀が執り行われた。開催の是非を巡っては大きく賛否が割れた。当然のことだと思う。安倍政権への評価、開催決定までのプロセス、弔問外交の効果など、意見が分かれうる点が複数存在したからだ。
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気になったのは、「国葬は日本の分断を生んだからよくない」という意見だ。果たして分断とは、それほど悪いことなのだろうか。
確かに経済的な分断は、格差の固定をもたらし、治安の悪化にもつながりかねない。貧困層が適切な医療を受けられないアメリカのような社会がいいとは思えない。
しかし政治的・思想的分断は、むしろない状態の方が気味悪い。ちょうど国葬と同じ時期、ウクライナ東部では、ロシアへの編入の是非を問う「住民投票」が実施された。ドネツク州では、編入賛成が99%を超えたという。
日本をはじめとした言論の自由が保障された民主制の国では、どんな投票や選挙でも「99%」という結果は考えにくい。各陣営の論戦や運動によって、投票者が意見を変え、数字は最後まで揺れ動くからだ。
これからの日本で、「99%」が支持する政治家が現れようものなら、大いに警戒すべきだ。数字が操作されている可能性だけではなく、オープンな議論ができない風通しの悪い国になっている危険性がある。
たとえ法律的に禁止されなくても「99%」に社会が流れていきそうな瞬間はあり得る。その時、「1%」は、意見を表明すれば袋叩きに遭うことがわかっているから、口をつぐむだろう。どんなに不愉快でも「1%」に聞く耳を持つのが、民主制のマナーのようなものだ(もちろん、沈黙する自由もある)。
特に政治家が関わるような決断に「唯一の正解」はない。同時代には「正解」と見なされたことが、後から間違いとわかることもある。だからこそ、遠回りや無駄に見えることがあっても、賛成派と反対派が討議する民主制には、一定の価値が認められているのだ。
「本物の国葬」として引き合いに出されたエリザベス女王でさえ「99%」ではなかった。イギリスの調査会社ユーガブによれば、女王が「好き」と答えたのは75%で、「嫌い」も8%いた。女王でさえ、全イギリス国民から支持されていたわけではなかったのだ。また若い世代を中心に、立憲君主制を廃止して共和制に移行すべきだという意見が強くなっている。
分断を忌避するという発想は、ともすれば「99%」を求めがちになる。自分の信じる正義が、社会を覆い尽くす状態は、さぞや気持ちいいだろう。だが今時、学級会でさえ「クラスの雰囲気が乱れるから、違う意見を言うのはやめましょう」なんて教師が誘導したら、SNSで告発されて炎上しかねない。
昨今の日本社会には、至る所で不毛に思える論争が溢れている。それは賛成・反対両意見を口に出せるという意味で、社会が健全な証拠なのだろう。その99%は真に不毛で、何の生産性もないかもしれないけど。