城島健司、陽岱鋼…ドラフトを巡る大騒動で“笑った人”“泣いた人”
相次いだ“抜け駆け”
“運命の日”がいよいよ迫ってきた。今年のドラフト会議は10月20日17時から都内で開催される。数多のドラマを生んできたドラフト会議は、これまで何度も新システムの導入やルールの改変が行われている。なぜ、そうなったのか、それぞれの契機となった球史に残る“事件”や“騒動”を改めて振り返っておきたい。【久保田龍雄/ライター】
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まずは2004年から導入されたプロ志望届から。野球ファンなら周知のとおり、プロ入り(独立リーグや日本女子プロ野球機構を含む)を志望する高校生と大学生がドラフト会議の2週間前までに提出する書類のことだ。プロ志望届を出さなかった選手は、大学進学、または一般企業就職志望者と見なされ、指名を受けることができない。今年は高校生154人、大学生187人の合計341人が提出している。
高校生の場合、プロ志望届が導入される以前は、退部届がそれに代わる役割をはたしていた。プロアマ規定により、プロ関係者は野球部在籍中の選手に接触できないが、その選手が夏の甲子園大会終了後に退部届を提出すれば、面談が可能になるというものだった。
しかし、1985年に桑田真澄(PL学園)が秋の国体終了後も退部届を出さず、早稲田大進学を表明しながら、巨人1位指名後に一転入団したほか、87年にも西武が早稲田大志望の鈴木健(浦和学院)を単独1位指名で獲得するなど、“抜け道”にも思える事例が相次いだ。
そして、94年のドラフトでも、ダイエーが駒沢大進学予定で退部届を出していなかった城島健司(別府大付、現・明豊)を1位で強行指名する。
城島は、ドラフト前日のスカウト会議で「指名した場合は、コミッショナー裁定に委ねることで指名対象外選手としない」と定められたが、毎年プロに好選手を送り出している駒沢大との関係を考慮した他球団は指名を見送った。
「どうしても欲しい選手だった」
もちろん、“抜け駆け”したダイエーは、当然のように猛反発を受けた。
これに対して、ダイエー・根本陸夫専務は、独自の調査の結果、「城島はもともとプロ志望。プロとアマは五分五分と思った」と判断して指名したことを強調し、「リスクは当然ある。ただ、チームが階段を上がっていくうえで、どうしても欲しい選手だった」と説明した。
ドラフト会議の翌日、吉国一郎コミッショナーは、セ、パ両リーグ会長との三者会談で事情調査することを決めたが、その後、ダイエー側に「問題再発がないよう、指導を要望する」と通告したうえで、城島の入団を承認した。
この出来事がきっかけで、翌95年から卒業後の進路を明確にしていないドラフト候補について、球団がコミッショナーを通じて学校側に希望進路を確認する「進路調査希望確認」が導入されたが、手続きなどに手間がかかることから自然消滅の道を辿り、その後、現在のプロ志望届制度になった。
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