横浜銀蝿「翔」が語る リーダー「嵐ヨシユキさんの死」、メンバー同士で遊び歩かなかった訳

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人気絶頂で解散のワケ

――1980年代は芸能界が今より華やかでした。ほかの芸能人たちとの横のつながりはあったのでしょうか?

翔「そういうのはありませんでした。僕らは若い子たちを集めて『銀蝿一家』をつくっていて、その子たちの練習を見ていましたから。一家から岩井小百合ちゃんや嶋大輔、紅麗威甦(グリース)などがデビューしました」

――メンバー同士でも遊ばなかった?

翔「メシは食いましたが、その程度。僕らはサングラスに革ジャン、ドカンなので、その姿で遊び歩くのは難しい(笑)。かといって私服で遊びに行くと、横浜銀蝿のイメージを壊してしまうので、それは避けていました」

――1983年の大晦日、人気絶頂時に解散しました。実動3年。どうしてですか?

翔「そもそも横浜銀蝿は解散ありきでスタートしたバンドだったんですよ。デビュー時、メンバー4人で『2年間で完全燃焼して解散しよう』と約束しました。ファンの子たちもそれを知っていました。4人で『2年間でシングル1位、アルバム1位、日本武道館満席を達成しよう』と言い合っていたんです。ところが、シングル1位が達成できなかった。『ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)』は2位でしたから」

――それで解散を1年伸ばしたんですか?

翔「そうなんです。1982年10月末発売の『あせかきベソかきRock'n Roll run』で1位が獲れて、やっと目標が達成できました」

――その後、翔さんと嵐さんは独自に音楽活動。Johnnyさんはキングレコードに入社し、ディレクターとして中山美穂さん(52)らを担当しました。TAKUさんは中森明菜さん(57)の「わくらば色の風(ラブソング)」を作詞作曲するなど作家に転身されました。

翔「はい。そして1998年に嵐さんと僕、TAKUの3人で再結成したんです。40周年だった2020年にはJohnnyも加わった4人でツアーをやりました」

――観客は50代、60代が中心ですか?

翔「そうですね。僕たちのコンサートに来る時だけは特別らしく、派手な服を着たり、ポニーテールにしたり。10代から20代の子供を連れて来る人も珍しくありません」

――今後の目標をお聞かせください。

翔「ずっと歌いたいですね。ロックンロールをやっていること自体が好きなんですよ」

◆横浜銀蝿は11月2日(水)のティアラこうとう大ホール(東京)を皮切りに「WOWOWプラスPresents T.C.R.横浜銀蝿R.S.嵐追悼 関東集会 All for RAN」と銘打ったツアーを行なう。同5日は神奈川・相模原市民会館大ホール、同27日は東京・なかのZERO大ホール。大阪集会12月9日(金)UMEDA CLUB QUATTRO、名古屋集会12月11日(日)ElectricLadyLand。12月18日(日)は東京・日本橋三井ホール。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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