横浜銀蝿「翔」が語る リーダー「嵐ヨシユキさんの死」、メンバー同士で遊び歩かなかった訳

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 リーダーでドラムスの嵐ヨシユキさん(享年67)が肺炎のため7月に他界した「T.C.R.横浜銀蝿R.S.」のボーカルでギターの翔(64)が、嵐さんへの思いと1980年代前半の爆発的ブームなどを語った。嵐さんの実弟でもある翔は「もっともっと一緒にやりたかった」と唇を噛んだ。

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――兄でリーダーの嵐さんの死から3カ月余りが過ぎました。お気持ちは?

翔「実はまだ完全には立ち直れていません。ずっと仲が良かったものですから。音楽も兄貴の影響で始めました」

――生還を信じていましたか?

翔「はい。本人もそう思っていたはずです。2004年に脳梗塞で倒れた時もリハビリを経て復活し、それ以降は生涯現役を宣言していましたから」

――お別れの時の胸のうちは?

翔「すごくショックで悲しかった。もっともっと一緒にいられると信じていたので、早すぎると思いました。何年も前から体調は悪かったのですが、強い兄貴だったので、逝くなんて思いませんでした」

デビュー前から「革ジャンにドカンでリーゼント」

――嵐さんがリーダーだった横浜銀蝿は1980年9月に「横須賀Baby」でデビューしました。経緯をお聞かせ下さい。

翔「僕たちは1970年代後半からアマチュアで活動をしていて、やがてプロを目指すようになり、レコード会社にデモテープを送ったり、いろいろな事務所のオーディションを受けたりしていたんです。でも、落ちまくっていたんですよ。37回目のアプローチで、やっとある事務所が見出してくれました」

――どうしてデビューするのに苦労されたのでしょう?

翔「デビュー前から革ジャンにドカンで髪はリーゼント。しかもロックンロールのオリジナル曲に拘っていたので、レコード会社は『こりゃ駄目だ』と思っていたようです(笑)」

――アマチュア時代のメンバーは嵐さんと翔さん、そしてギターのJohnnyさん(64)ですね。

翔「ええ。ベースのTAKU(62)はデビューが決まった後に参加しました。Johnnyとは神奈川県立柏陽高校の同級生なんです。彼と出会ってからバンド活動を始めました」

――柏陽高は偏差値70以上で神奈川県有数の進学校。1981年の「ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)」は翔さんたちの高校時代の実体験に基づいてつくられたはずですが、柏陽高にもツッパリはいたんですか?

翔「いや、いませんでした(笑)。だけど僕らの年代というのは地元の高校生の多くが髪型はリーゼントで、長ランや短ランなど異質の学生服を着ていて、登下校では他校の生徒とよく小競り合いをしていたものです。それを歌詞にした。地元は横浜市戸塚区でした。僕自身は兄貴の影響もあって、不良でしたけどね。やはりリーゼントでした」

――「ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)」の歌詞にある「タイマンはりましょ赤テープ同士で」によって、カバンの取っ手を赤いテープで巻くと、「ケンカ売ります」のサインであると全国中に知れ渡りました。やはり歌詞にあった「ガンを飛ばす(相手をにらむ)」、「とっぽい(生意気で不良っぽい)」という言葉も流行しました。

翔「僕たちが高校時代、ごく普通に使っていた言葉なんですけどね」

――2年後にはこの曲と世界観がピッタリ重なり合う漫画『BE-BOP-HIGHSCHOOL』が登場し、大ヒットしました。

翔「面白かったですね。俺たちも読んでましたよ」

――1970年代までの若者向けの音楽は大学生や社会人、あるいは真面目な高校生たちに向けたものが大半でした。ちょっと横道に逸れている若者が歓迎する音楽は少数派。そんな中で登場した横浜銀蝿の作品群は異質でした。

翔「よくJohnnyらと話すのですが、僕らの歌がヒットしたのはあの時期だったからだと思うんです。1980年代にデビューし、81年、82年とやっていた頃は校内暴力が史上最悪のペースで起きた。暴走族の活動もピーク。『積木くずし』がベストセラーになったのも1982年です。ちょうど若者たちの鬱屈が爆発寸前だったんだと思うんです」

――横浜銀蝿の曲は横道に逸れた若者たちの気持ちを代弁したから広く受け入れられた?

翔「僕たちの音楽が時代とうまくぶつかったというのが自己分析です。デビューが1年後でも1年前でも駄目だったでしょうね」

――意識的にやんちゃな子に向けて曲をつくっていたわけではない?

翔「ええ。デビュー前から『僕たちはオリジナル曲で勝負したい』とレコード会社に訴え続けたら、『じゃあ、お前たちにしか歌えない曲をつくれよ』と言われたんです。だから高校時代の日常など身近な話を歌にした。1980年の『ぶっちぎりRock’n Roll』もそうでした」

――歌詞の冒頭は「走り出したら止まらないぜ 土曜の夜の天使さ」ですね。

翔「そうです。ドライブとかバイクの歌とかではなく、『土曜日の夜は最高だ』って曲をつくろうと思ったんですよ」

――それでも車好き、バイク好きの愛聴歌になりました。

翔「はい。暴走族がコンサート会場の前に集結していたこともありましたね。チケットも持っていないのに(笑)」

――暴走族のファンもいましたからね。

翔「そうでしたね。コンサート会場に向かうため、メンバー4人が新幹線から降りると、JohnnyとTAKUは女子高生に囲まれるんです。嵐さんと僕のところにはあまり来ない。だけど、コンサートが終わり、4人で食事をしている際、暴走族と遭遇すると、一番人気は僕(笑)。みんな「翔!」と叫んでいました。けれど彼らに囲まれたり、危険な目に遭ったりしたことはありませんよ」

――コンサート会場内にもやんちゃな子も来たのでは?

翔「いましたね(笑)。そんな子の中には椅子の上に乗っかっちゃったり、ステージの真ん前まで来ちゃったりする子もいたんです」

――困りますよね。

翔「次からその会場が借りにくくなってしまい、ほかのファンの子たちをがっかりさせてしまいますからね。だから考えました。コンサートが始まって1曲目が終わったら、こう呼び掛けることにしたんです。『この会場にまた来たいから、申し訳ないけど、最低限のルールを守ってくれないか』って。その声は彼らも受け止めてくれましたよ。やんちゃな子は目立ちたいだけなので、頭からガーッと抑えつけたり、シカトしたりすると、『ふざけんなよ!』となってしまいますけど、同じ視線で声を掛ければ大概は分かってくれます。観客の誰かが暴れるとかいうのはあまりなかったです」

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