ドラ1指名は確実だったが…プロ入りを拒否したドラフト“超目玉選手”のその後
「五輪の悔しさは五輪で晴らすしかない」
プロ入りを希望すれば、1位指名は確実視されていたが、結果的に“ミスターアマ野球”と呼ばれる野球人生を選んだのが、杉浦正則である。
同志社大時代の1990年秋、明治神宮大会で優勝投手になった杉浦は、日本生命入社2年目の92年にバルセロナ五輪に出場。3位決定戦の米国戦で勝利投手になり、銅メダル獲得に貢献した。
さらに、帰国後には、都市対抗でチームの7年ぶり2度目の優勝の原動力となり、MVPに相当する橋戸賞に輝いた。
当然のようにプロの各球団は「確実に二桁勝てる」と熱い視線を送り、1位指名を確約したが、ドラフト前に右肘を痛めていたことに加え、金メダルを獲れなかったことに悔いを残していた杉浦は「五輪の悔しさは五輪で晴らすしかない」と社会人でプレーを続ける道を選ぶ。
だが、96年のアトランタ五輪では銀メダルに終わった。28歳という年齢からプロ入りは遅きに失した感があったが、それでもダイエーをはじめ各球団が声をかけてきた。
事実上、プロ入りのラストチャンスだったが、もう少しで金メダルに手の届くところまで来ていた杉浦は、次なる目標を2000年のシドニー五輪に定める。シドニーでは、初めてプロ選手の参加も認められ、32歳の杉浦は松坂大輔(西武)、黒木知宏(ロッテ)らの良き兄貴分としてチームのまとめ役になった。
そして、メダルを逃し、4位に終わると、“プロより五輪を選んだ男”は、「4年後のアテネ(五輪)は、年齢的にも日本代表に選ばれるのは難しい」と、同年のシーズン後に現役を引退した。プロ入りしなかった理由について、杉浦は「タイミングとか縁とか、そういうものもあった」と回想している。
野球選手として最も脂がのり切っていたころ、五輪はアマの選手しか出場できなかった。もし、当時からプロの選手も五輪への参加が認められていたなら、あるいはバルセロナ五輪で金メダルを手にしていたら、ひょっとすると、杉浦はプロのいずれかのチームで投げていたかもしれない。
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