日ハム「松本剛」は苦節11年…クビ寸前からまさかの大化けで首位打者になった3選手

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「長嶋茂雄」超えの史上最年長記録

 短く持ったバットを水平に寝かせる個性的な打撃フォームで安打を量産し、史上最年長の36歳で首位打者を獲得したのが、1979年のフェリックス・ミヤーン(大洋)である。

 78年にジョン・シピンに代わる新外国人として大洋に入団した陽気なプエルトリカンは、1年目に打率.287をマークしたが、二塁守備では鎖骨骨折の影響から満足な送球ができず、「あいつのお蔭で20度以上は併殺を逃した」と別当薫監督を嘆かせた。翌79年も、西武から二塁手の基満男が移籍してきたことから、当初はチーム構想から外れていた。

 だが、故障も完治し、「今シーズンの体調は(メジャー時代の)69年、75年に続いて3度目のベストコンディションだ」と自信を取り戻したミヤーンの打球は、面白いように野手の間を抜き、5月上旬には5割近い高打率で打撃トップに。基を三塁に追いやり、不動の2番打者に定着した。

 6月に入っても、ミヤーンは4割2分台から3分台をキープし、「初の4割打者誕生か?」と騒がれた。最終的に打率.346で、12球団で唯一首位打者を出していなかった球団の記念すべき第1号に。36歳シーズンでの達成は、川上哲治、長嶋茂雄(いずれも巨人)の35歳を塗り替える史上最年長記録である(※現在は巨人・クロマティ、楽天・リックとともに1位タイ)。今季は37歳シーズンの大島洋平(中日)が“ミヤーン超え”に挑戦したが、惜しくも首位打者には届かなかった。

大化けした“赤ゴジラ”

 1度はクビになりかけながら、一転残留、背水の陣で臨んだ10年目のシーズンで見事首位打者に輝いたのが、“赤ゴジラ”嶋重宣(広島)である。

 94年のドラフト会議で2位指名され、翌年に入団した最速147キロ左腕は、肘を痛め、5年目の99年に打者転向。同年は3本塁打を記録したが、年々出場機会が減り、2003年は1軍出場わずか2試合に終わる。球団側はシーズン後の解雇を決め、本人も「解雇されたら、米国でテストを受ける」と覚悟していた。

 そんな崖っぷちの男に救いの手を差し伸べたのが、同年、巨人から古巣・広島に復帰したばかりの内田順三打撃コーチだった。秋季キャンプで面白いように打球を飛ばす嶋を見て、大化けの可能性を感じ、球団にかけ合って残留を認めてもらったのだ。

 1年間の“猶予”を貰った嶋は、「体がぶっ壊れても、遮二無二バットを振れ」という内田コーチの檄に応え、5年かけて熟成させたスイングに一層磨きをかける。背番号も00番から心機一転“ゴジラ”松井秀喜と同じ55番に変えた。

 そして翌04年、オープン戦の活躍でライトの定位置を手にした嶋は「とにかく積極的にいくしかない」とチャレンジャーに徹し、開幕から8試合で打率.571、5本塁打と打ちまくる。5月終了時点で打率.362、11本塁打と好調を維持し、8月以降も首位打者をキープ。本塁打も9月4日の中日戦で30号の大台に乗り、赤ゴジラの愛称もすっかり定着した。

 最終的に打率.337、32本塁打、84打点で首位打者を獲得。セ・リーグのシーズン最多安打記録まであと「3」に迫る189安打で、最多安打のタイトルも手にした。

 “クビ寸前”から必死の思いで這い上がってきた男は「胃の痛くなるような思いをして初めて味わえた夢のようなシーズンでした」と感慨深げに“激動の1年”を振り返っている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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