【鎌倉殿の13人】クライマックス「承久の乱」へ 義時と後鳥羽上皇はなぜ対立したのか

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実朝の没後は関係が悪化するばかり

 実時の死後、上皇と義時ら幕府の関係はみるみる悪化する。端緒は同年3月。上皇は摂津国(現・大阪府北西、南西部と兵庫県東部)の荘園2つの地頭(租税徴収などに当たった管理者)を撤廃するよう求めたこと(『吾妻鏡』)

 もとは上皇の愛妾でこの荘園を与えられていた亀菊の訴えだった。これを義時は退けた。上皇は怒ったに違いない。

 同年7月にはもっと大きな事件が起きた。実朝政権の政所別当(政務官庁の長官)で、在京の大物御家人・源頼茂が、謀反を企てているという風聞があったため、上皇が追討の院宣を出す。すると頼茂は大内裏(皇居と諸官庁)に火を放ち、建物と宝の多くが焼けてしまった(『愚管抄』)

 上皇にとっては大損害である。そもそもの理由は幕府にあったものの、義時は再建に全く協力しようとしなかった。両者の溝が決定的になった。

「承久の乱」勃発

 1221年4月、ついに上皇は義時の排除に向けて動く。軍記物語『承久記』によると、京の城南寺に近隣の武士1000余騎を集めた。

 翌5月には京都守護(在京御家人の統率者)の伊賀光季を討つ。光季の妹は義時の継室・伊賀の方(役名・のえ、菊地凛子)である。同時に西日本の武士に対し、官宣旨(公文書)が出され、義時追討が命じられた。

 それとは別に三浦義村(山本耕史)や北条時房(瀬戸康史)ら幕府の有力者8人に向けて義時追討の院宣を出す準備が行われた。

 また上皇は在京御家人の抱き込みも図った。その1人が検非違使(京の警察)をしていた三浦胤義(岸田タツヤ)。義村の実弟である。

 義村への院宣が京から鎌倉に届く直前、胤義からの私的な書状が義村のところに来た。こう書かれていた。
「勅命に応じて義時を謀殺せよ、勲功の賞は申請の通りにする、と院(上皇)からの仰せを賜った」(『吾妻鏡』)

 胤義は上皇側に付いてしまった。状況は良くない。半面、この書状のお陰で義時たちは初期対応に成功する。院宣を持ってきた使者は取り押さえられた。

 政子と義時は上皇と戦うことを決意する。ただし、前代未聞のことだけに御家人たちは簡単には動かない。動揺しても不思議ではない。そもそも勝てるかどうか分からない。

 5月21日、政子が御家人たちの前で流れをガラリと変える演説を行う。

「皆、心を1つにして聞くように。これが最後の言葉である。故右大将軍(頼朝)が朝敵を征伐し、関東(幕府)を開設して以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山より高く、海より深い。ところが、今、逆臣の讒言によって、(朝廷は)正義でない綸旨を下された。名を惜しむ者たちは藤原秀康(上皇側の大将軍)、三浦胤義らを討ち取り、3代の将軍の遺産を完全に保つように。ただし(上皇の)院御所に参ろうと思うなら、今すぐ言明するように」(『吾妻鏡』)

 御家人たちの間からは泣き声が上がった。鎌倉が1つになった。

 翌22日、義時は嫡子・北条泰時(坂口健太郎)に僅かな兵を率いさせ、京へ攻め上がらせる。

「(泰時が)京都に進発す。従軍、18騎なり」(『吾妻鏡』)

 知恵者・大江広元(栗原英雄)らの考えで、敵を迎え討つのではなく、攻めに出た。その後、御家人たちが続々と泰時の後を追い、地方の武士も幕府軍に加わって、最終的に兵力は20万騎近くにも達した。

 頼朝に恩義を感じている武士は全国にいた。これも政子の演説が効いたと見るべきだろう。

 勝ち目がなくなった上皇は同6月15日、院宣を撤回。その上、この戦いは自らの意思ではなく、謀臣の企みであると釈明した。

 3年後の1224年6月、義時は急死する。61歳だった。

 直後、また揉め事が起こる。義時の次の執権の座を巡っての「伊賀氏事件」(同)である。3代目執権には実績も人望もある42歳の泰時が就くと見られていたが、義時の継室・伊賀の方は自分と義時の子である20歳の北条政村を据えようとした。将軍も女婿・一条実雅にやらせようと画策した(『吾妻鏡』)

 伊賀の方側は政村の烏帽子親(元服する時に烏帽子を被せた人)である三浦義村の抱き込みを図ったが、失敗に終わる。伊賀の方側の動きを察知した政子が、義村邸を訪ね、睨みを利かせたせいだ。

 義時は伊賀の方に毒殺されたという説が古くからある。はっきりしたことは分からない。伊賀の方は事件の発覚後、伊豆北条(現・静岡県伊豆の国市)に流された。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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