古典に現代の価値観を要求するのは間違い? 言葉狩りと焚書の思想(古市憲寿)
「できれば将棋倒しという言葉は使わないでほしい」。あるテレビ番組で言われたことがある。いわゆる放送禁止用語ではないが、日本将棋連盟からクレームの入る可能性があるらしい。
速報PR会社女性社長は「キラキラに見えてドロドロ」 斎藤知事当選の立役者の素顔を親族が明かす
事の発端は2001年に遡る。兵庫県の明石花火大会で群集事故が発生、11名が全身圧迫で死亡した。当時、メディアでは「将棋倒し」という言葉を用いて事故を報道していたが、これに反応したのが日本将棋連盟である。将棋倒しは、子ども向けの遊びであり、駒をきれいに並べ、最後まで倒した達成感は、子ども心を成長させる。事故を表現するために「将棋倒し」を用いるのは、「誠に不適切な使い方」だというのだ。
だが日本将棋連盟が抗議をする約600年前に成立した「太平記」では、以下のような用例がある。「将碁倒をする如く、寄手四五百人、圧に討たれて死ににけり」と、まさに現代と似た使い方だ。日本将棋連盟は「太平記」の発行禁止や、表現の書き換えを求めるのだろうか。
そんな軽口が冗談で済まされない時代が訪れつつあるのかもしれない。最近発売された梅田孝太さんによる入門書『ショーペンハウアー』では、『幸福について』を読むにあたって、こんな注意書きが出てくる。
いわく、同書には「男尊女卑や人種差別が含まれている」「それを真に受けてしまうことで読者自身が傷つき、あるいはその内容を広めることで誰かを傷つけてしまう危険性がある」。
ショーペンハウアーの『幸福について』(『余録と補遺』所収)が刊行されたのは、1851年のことだ。現代とはジェンダー観も人種意識も何もかも違う。そしてそれは常識と見なされていた。だから、わざわざ古典には「男尊女卑や人種差別が含まれている」などと記されていなかった。
だが、現代と価値観が違うことが、もはや常識ではないというのなら、あらゆる古典や昔話に注釈が必要となってしまう。「太平記」なら「血なまぐさい戦闘シーンが相次ぎますが、読者の皆様は殺人や戦闘行為への参加はお控え下さい」といった具合だろうか。
注釈で済むならまだマシな方で、過去にも現代の正義を要求する人は、古典の焚書を求めるのかもしれない。言葉狩りと焚書の思想は通底している。キャンセルカルチャーが流行する時代だから、焚書もあり得ない話ではない。
ただ「将棋倒し」という言葉に限っていえば、日本将棋連盟の抗議とは無関係に、やがて消えていくだろう。将棋倒しという遊びの人気がなくなり、もはや比喩として成立しにくいからだ。
実は将棋人口も減少している。日本生産性本部の調査によれば、1982年に2260万人、2009年でも1270万人いた将棋人口は、2020年に530万人まで減った。コロナの影響もある一方、藤井聡太さんの人気は続くだろうが、昭和の熱気が戻ってくるとは思えない。
言葉や文化は何も力ずくで押さえつけようとしなくても、人気さえなくなれば呆気なく消えていくはかない存在なのである。