村上宗隆、巨人では実現しなかった「56号」と「令和初の三冠王」 25年オフ「米移籍」へ加速
人気の清宮、実力の村上
プロ野球ヤクルトの村上宗隆内野手が10月3日のDeNAとの今季最終戦で、1964年の王貞治を超え、日本人単独最多の56本塁打をマークするとともに、史上最年少で三冠王に輝いた。22歳にして“村神様”はNPB最強スラッガーの地位を確立した。【津浦集/スポーツライター】
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村上は2017年秋のドラフト会議で“1位”指名を受けた。その年の“目玉”は高校通算111本塁打を放ち、最多7球団が指名した清宮幸太郎(日本ハム)だった。村上は外れ1位で、ヤクルトと同じく清宮をくじで外していた巨人、楽天が指名するに至った。
当時、楽天のスカウト会議に出席していた関係者がこう証言する。
「親会社の意向で仕方なかったが、最初から清宮より村上を指名すべきだと思っていた。清宮は高校生の球だから打てているだけで、プロの球威や変化球の切れの対応には時間がかかると分析していた。外れ1位で村上と安田(尚憲=ロッテ)との二者択一になったときのシミュレーションでは、打球の力強さや体格の大きさを理由に満場一致で村上に決まった」
当時からプロ側の評価は「人気の清宮、実力の村上」が定着していた。
村上はルーキーイヤーの18年9月、初打席初本塁打という離れ技を演じた。2月の早生まれのため、00年代以降に誕生した選手による初本塁打でもあり、早くも大物の片鱗を見せている。翌19年、このシーズンが神懸かり的な打棒を生む起点になった。
オープン戦から好調の村上を、小川淳司監督(当時)はコーチの反対を押し切ってまで開幕スタメンに抜てき。のちに小川監督はこの起用を「賭け」と表現した。ホームランを打つこと以外はレギュラーにほど遠かったからだ。
村上は三塁と一塁の守備で実に15失策を記録した。打撃でもセ・リーグ新記録の184三振を喫している。両リーグ断トツ、歴代でも4番目の多さで、球史を振り返ってもその上にはラルフ・ブライアント(元近鉄)の204、198、187しかなく、日本人最多記録となった。ヤクルトはこの年、高卒2年目以内の打者としては中西太(西鉄)と並んで最多記録となった村上の36本塁打と引き替えに、優勝した巨人と18ゲーム差の断トツの最下位に沈んだ。
原監督なら我慢できたか?
元NPB監督が当時を振り返る。
「投手にも生活がある。1アウト取れなかったことで野球人生が変わることさえある。アウト一つはそれほど重い。だから投手コーチは村上の出場に難色を示したことがあったはず。守備コーチも肩身が狭い思いをしたと思う。打撃コーチでさえ、これだけ穴が多く、チャンスで凡打されては大きな顔はできなかっただろう。各担当コーチはみんな育成に苦しんだに違いない」
それでも、小川監督は全143試合で使い続けた。
「村上には欠点に目をつぶってでも、首脳陣に主砲に育てようとさせる大物感があった。チームは目先の勝利を犠牲にし、未来の勝利に投資した。それが昨季の日本一、今季のセ・リーグ2連覇につながった」(同前)
昨季は39本塁打で初めて主要タイトルを獲得。今季の活躍は周知の通りだ。
「村上が巨人に行っていれば(19年の)小川監督のような起用はできなかったと思う。史上最多レベルで三振し、守備では投手の足を引っ張った村上を、最下位の状況下で原(辰徳)監督が我慢して使えたかどうか。プロの選手の才能は紙一重で伸ばすのは首脳陣の覚悟次第。目先の勝利に追われる巨人で、村上がこれだけ早く完成したとは思えない」(同)
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