「自ら鉄斧を振って仏像を破壊」――宗教を弾圧して乱世を終わらせた「中国の織田信長」
旧統一教会が日本政治を揺るがせているが、いつの時代も政治にとって宗教は鬼門である。かつて織田信長は、一向一揆や比叡山延暦寺と死闘を繰り広げ、これを制することで天下統一への道を切り開いた。
中国でも、仏教を徹底的に弾圧して、五代十国と呼ばれる乱世に終止符を打った偉人がいる。中国史上「最後の仏敵」とされる後周の世宗(せいそう)〈柴栄(さいえい)〉である。
数多いる中華帝国皇帝のなかでも、ほとんど無名ではありながら、中国史の泰斗・内藤湖南と宮崎市定は、この世宗をしばしば織田信長にたとえ、「真の天才」と評している。
たしかに、数々の苦難の戦争を勝ち抜き、仏教を弾圧し、事業の半ばにして倒れた本人の生涯ばかりか、その配下から後を継いで、統一を成し遂げる武将が出てくるところまで同じである。
はたして世宗とはどんな人物だったのか。人気歴史家の岡本隆司さんの新刊『悪党たちの中華帝国』から、一部を再編集してお伝えしよう。
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「桶狭間」に匹敵する「高平の戦い」
後周の世宗は、954年、父帝の死を受けて34歳で即位した。しかし即位直後に、隣国の北漢が、契丹(キタイ)の大軍の支援を受けて侵攻してくる。実戦経験のない青年天子であれば、「勝ち目がない」という、馮道(ふうどう)をはじめ家臣たちの諫止を振り切って、世宗は自ら親征した。
世宗は諸軍をひきいて北上、高平(こうへい)で北漢軍と遭遇する。いまも山西省の同名の地に、後周軍は左・右・中央の3軍に分かれて布陣した。戦いが始まると、まもなく崩れたのは右軍である。指揮する騎兵隊長と歩兵隊長がともに遁走(とんそう)、兵は武器を捨てて敵軍に降伏した。
このままでは、敗色は濃厚である。形勢をみてとった世宗は、親衛隊を率いて自ら「矢石(しせき)を冒して」督戦(とくせん)した。
そこで「主上が危うい。われわれも命をかけなくてはならぬ」、「国家の安危はこの一挙にあり」 とさけび、陣頭にたって突入したのが将校の趙匡胤(ちょうきょういん)、のちの宋の太祖(たいそ)である。その部隊のめざましい働きは「一兵で百の敵に当たる」ともいわれた。
かくして戦局は一変する。北漢軍は総崩れとなり、援軍として来ていた契丹軍も、士気あがる後周軍をはばかって、まったく戦闘に加わることなく撤退した。外患はかくて去ったのである。
これを「高平の戦い」といい、まさに「桶狭間の戦い」に匹敵する大一番であった。
なぜ仏教を弾圧したか
高平の戦勝で、まったく世宗の地位は安定する。威信は国外にとどろき、国内でも公然と楯つく者は跡を絶った。大小のあらゆる政務は、世宗がみな親裁(しんさい)して、百官はそのとおり施行に移すばかりとなる。
かくてとりかかったのは、まず仏教教団の規制であった。唐代まで隆盛を極めた仏教は、なお膨脹をつづけ、政府の財政を圧迫していた。僧侶に労役免除の特典があったためである。労役を逃れるために農民が、あるいは逃亡兵、浮浪者や犯罪人も寺に駆け込んで、形だけの僧となっていた。
世宗が955年5月24日に教団の大整理を命じたのも、こうした情況があったからである。全国の寺院で勅額(ちょくがく)のないものはすべて廃毀(はいき)し、勝手に得度(とくど)することを禁じて、出家しようとする者は、必ず両親の許可を必要とすることにした。出家には厳重な試験を設け、地方の州県に毎年、登記簿をつくって僧尼の数を把握させる制度を設けている。
その結果、廃した寺は3万336、2694の寺院を存続し、僧は4万2444人、尼は1万8765人となった。このとき還俗(げんぞく)させられた者は、数十万人にものぼるとみられる。
ついで同年9月1日、民間のあらゆる銅器・仏像はすべて50日以内に、政府に醵出(きょしゅつ)するよう勅命をくだした。その目的は何より銅銭の鋳造にある。
軍団の給与は貨幣・銅銭で支給した。将兵は遊牧民の出自が多く、商人と近かったからである。将兵に十分な待遇を与えることが軍隊統御の基本ではありながら、しかし歴代の王朝政権は、銅銭の不足に悩まされてきた。銅銭の額面より銅の地金のほうが、価値が高かったためである。銅銭を溶かして器皿(きべい)や仏像をつくって巨利を取る者も多く、いよいよ貨幣が不足した。なかんづく銅を多量に使っていたのが、諸寺の仏像だったのである。
自ら鉄斧を振って仏像を破壊
侍臣に対する世宗のセリフが伝わっている。
「仏像の廃毀をためらうな。いったい仏は善道で人を教化するもの、善に志しさえすれば、それで仏に奉ずることになる。あんな銅像が仏であるはずもない。仏陀は人を利するためなら自身の頭や目をも施捨(ししゃ)したという。朕の身体で民を救えるなら、惜しむものではない」(『資治通鑑』292)
これを引用した中国第一の史家・司馬光は、注釈を加えて、「その身を愛(おし)まずして民を愛す」、「実体の無いもののために、有益なるものを廃さなかった」と世宗の仁徳・明察を絶賛した。このあたりが、仏教を克服した儒教・宋学(そうがく)の普及する、後世の輿論一般の評価だったといってよい。
さらに世宗は自ら鉄斧を振って仏像を破壊したともいわれる。
「鎮(ちん)州大悲(だいひ)寺の菩薩像は霊験(れいげん)あらたかなので、仏像破壊の勅命(ちょくめい)が下っても、誰も近づこうとしない。帝はこれを聞きつけ、自らその寺に出向き、鉄斧をふるって仏像の胸を砕いた。見ていた人は怖気をふるって、バチがあたるぞ、とささやきあった」(『仏祖統紀』巻42)
一連の施策は「三武一宗」の一つ、中国史上最後の「法難」ともいわれ、世宗も仏敵と位置づけられてきた。しかし帝の目的が、仏教そのものの禁圧・思想に対する弾圧ではなく、あくまで膨脹した教団と寺院の整理だったのは上でみたとおりで、仏像の醵出も主として財政的な見地によった政策である。したがって天下の仏像すべてを破毀したとみては行き過ぎで、認可をうけた勅額寺院には、仏像も鐘も装飾品も存置が許された。
このように銅材の購入・集中に努めた結果、銅銭の鋳造がようやく盛大になっている。当時の銅銭「周通元宝(しゅうつうげんぽう)」は、いまの日本でも見るに難くない。つづく宋代の中国は、まったくの貨幣経済となった。いわゆる宋銭は日本人にもおなじみだろう。
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この後、世宗は破竹の勢いで天下統一を進めるが、契丹との戦いの最中に発病し、志半ば39歳にして早逝する。後を継いで天下統一を達成したのは、「高平の戦い」で獅子奮迅の戦いを見せた武将の趙匡胤、宋の太祖である。
二人が天下統一を成し遂げるまでの経緯は、岡本さんの『悪党たちの中華帝国』に詳しいが、世宗が織田信長なら、趙匡胤はまさに豊臣秀吉といえる関係であった。