【追悼】アントニオ猪木さん 生前、明かしていた「北朝鮮への熱い思い」

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30数回に及ぶ「訪朝」

 10月1日に亡くなったアントニオ猪木氏。北朝鮮への訪問は、時に「売名行為」「政府の方針に反している」「北のたいこ持ち」と批判もされたが、1994年から続き、実に30数回を数えている。では、そもそも彼はなぜ北朝鮮にこだわり続けたのか。その“熱い思い”を生前、「新潮45」のインタビューに答え、吐露していた。そのきっかけはプロレスの師匠、力道山の存在だったという。

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 猪木氏は13歳のとき、一家でブラジルに移住している。農場で働き、陸上競技で頭角を現し、大会で優勝するなどしていたという。興行でサンパウロを訪れた力道山にスカウトされ帰国、17歳でプロレスデビュー。付き人として力道山と行動をともにしていた。

〈61年頃でしょうか、師匠に縁談の話が舞い込み、興行がてら新潟まで付き添ったことがありました。その時、なぜか1日だけ付き人に休みが与えられたんですね。私は師匠が趣味のゴルフをしているのだろうと気にも留めませんでした。しかし、実際は違っていた。その日は北朝鮮からの「帰国船」が新潟港に寄港しており、師匠はその船に乗って日本を訪れた、実の娘・金英淑さんと対面していたんですね〉(「新潮45」2017年11月号)

力道山の弟子として

 今ではよく知られた話だが、力道山は現在の北朝鮮出身。出場した「シルム(朝鮮相撲)」の大会を観戦した二所ノ関部屋の後援会関係者にスカウトされ、日本を訪れる。養子となって日本名「百田光浩」を名乗っていた。当時、北朝鮮への渡航は禁じられていた。1963年12月、力道山は亡くなる。

〈私をプロレスの世界に導いてくれた師匠が、ついに錦を飾れなかった故郷、それこそが北朝鮮でした。師匠が生涯にわたって抱え続けた無念の思いを胸に、北朝鮮へ渡ろうと考えるようになりました〉

 そして1994年、猪木氏はようやく北朝鮮を訪問。そこで初めて力道山の娘と対面を果たしたという。

〈あとで分かったことだけど、金日成主席は「力道山という同胞が日本で大活躍している」と耳にしていたようで、娘は大学まで通わせてもらい、国家体育委員長まで務めた夫と結婚しています。そして、2人の娘、つまり師匠の孫は重量挙げの選手で、コーチとして五輪で金メダルを獲得した選手を育て上げた。さらに、ひ孫に当たる16歳の少年は柔道選手として将来有望。東京五輪への出場も期待されています〉

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