巖さんの死刑判決を書かされ、その後の人生が暗転したエリート裁判官の苦悩【袴田事件と世界一の姉】
「人の命を左右できない」
「主文 被告人を死刑に処す」
1968年9月11日、石見裁判長が死刑宣告をすると、巖さんはがっくりうなだれた。それを間近に見ていた熊本氏は、その姿が忘れられず、「人の命を左右する仕事はできない」と考えた。
石見裁判長については、後年、「袴田巖さんを支援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長が熊本氏に会いに行った際に聞き出した言葉がある。山崎氏によると「熊本さんは『石見裁判長も有罪にするのは無理だと思っていたはず』」と語っていたという。
熊本氏は、次第に精神状態が不安定になる。
「末は最高裁判事間違いなし」と期待されていた司法界の逸材も、そのショックはあまりにも大きく、長男が生まれた1969年に退官してしまう。弁護士となり、東京都杉並区へ転居した。最初は司法修習同期の弁護士を頼り、ある弁護士事務所に入る「いそ弁(居候弁護士)」だった。しかし、死刑判決を書いたことで自己を責める気持ちは高まるばかり。警察署で「俺は人を殺した、逮捕しろ」などと暴れたり、家庭でも精神不安定から暴れるなどが絶えず、1970年には妻と離婚してしまう。
その後、独立して事務所を持ち、千葉大学の非常勤講師なども務めた。74年には再婚もし、女児が生まれた。
しかし、生活がどう変わろうと、「囚われの身」の巖さんのことを片時も忘れることはなかった。「横川さんなら大丈夫。わかってくれるはず」と逆転無罪を信じていた。横川さんとは、当時、控訴審で裁判長だった横川敏雄氏(1914~1994 )だ。ところが控訴審(1976年)も棄却されて、熊本氏は衝撃を受ける。
1980年11月、最高裁で巖さんの死刑が確定してしまう。
「無実の男を獄中に放り込んでおきながら、自分は仕事でも家庭でも恵まれている人生を送っている」
熊本氏のそうした罪悪感は強まることこそあれ、消えていくことはなかった。次第に酒に溺れる生活に陥ってゆく。それでも、1985年8月に520人が死亡した「日航ジャンボ機事故」に関わったことから安田火災海上保険の顧問弁護士を務めるようになった。そうしたことで年収1億円以上稼ぎ、銀座のクラブなどで豪遊する時期もあった。
しかし、家庭はうまくゆかず、2度目の妻とも1990年には離婚してしまった。
異国の北海で自殺未遂
1991年には司法修習同期の弁護士事務所に入るが、肝硬変、大腸がんなどに悩まされて入院生活を送るなどし、仕事は満足にできなかった。公判にも出られないことが多く結局、鹿児島弁護士会から除名となる。
1996年には鹿児島県の出水市や長崎県の五島列島で、弁護士登録しようとしたが、推薦員が集まらなかったなどでうまくいかなかった。そうこうするうち、幻覚症状などもひどくなってくる。そして、「どんな時でも忘れることはなかった」(本人談)巖さんに対する「情念」はますます強くなる。
「巖君が殺される前に自分が死のう」
福井県の東尋坊、阿蘇山、不知火の海などで自殺を図るが死にきれなかった。
最後には北海で氷の海に飛び込もうとストックホルムから船に乗った。ところがその船の甲板からある青年が飛び込み自殺をした。熊本氏は目撃者として警察の聴取を受け、自殺どころではなくなってしまった。その時、青年の母親が泣き叫ぶ姿を見て、「親からもらった命を粗末にできない」と死ぬことを思いとどまり、生きることを決心したのだった。その後、鹿児島へ移り、弁護士稼業を続けようとしたが、精神は不安定、パーキンソン病など様々な病気が発症し、仕事はうまくいかなかった。
事務所の若い女性に入れあげたり、酒場で酔って暴れたりと、ほとんど仕事ができず、弁護士登録を抹消されてしまう。再々婚し、女児にも恵まれ、弁護士登録をしようとしたがうまくいかなかった。元エリート裁判官は次第に貧困になり、放浪生活のようになってゆく。そして2006年頃、福岡市で露天商をしていた島内和子さんと知り合い、2人は市内の島内さんの一軒家で暮らし始めた。島内さんには自分の経歴を明かさなかった。精神不安は治らず、西鉄の電車に飛び込んで鉄道自殺を図り、血だらけになったこともある。理由を尋ねる島内さんには「70歳になったら話す」と言っていた。そうした中、突然「袴田巌君を支援したい」と言い出した。島内さんは熊本氏が裁判官だったことをそこで初めて知り、仰天したのだった。
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