「遺体の99%に暴力的な死の痕跡が」 拷問、飢餓…ロシア軍から解放された町のリアルとは

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支援物資の到着を聞きつけて集まった住人たち

 ウクライナが奪還した故郷へ冷蔵庫を取りに来た住民は、崩れた橋を渡り再び避難先へと戻っていく──。ロシア軍による侵攻から7カ月。ウクライナ軍の反転攻勢によって東部の要衝、ハルキウ州のイジュームが解放された。だが、そこにかつての風景はなかった。目に飛び込んでくるのは、虐殺から逃れ、拷問、飢餓に耐え、破壊された町で生き抜いた市民たちの姿。現地のボランティアに帯同し取材を続ける、写真家・尾崎孝史氏による最新レポート。

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 人道支援ボランティアの活動拠点・ザポリージャからハルキウを経由して400キロ。ぬかるんだ泥道を進んでゆくとウクライナ軍の車両とすれ違う。運んでいるのはロシア軍が放棄した戦車や軍用車両だった。

 イジュームの中心部に到着したのは9月16日夕刻。5日前に解放されたばかりの町は、警備のウクライナ兵や警告灯を光らせる警察車両が行き交い緊張感がただよう。

 支援物資の到着を聞きつけて集まっていた住民は80人ほど。ワゴン車を停めてドアを開くと住民たちはパニック状態になった。「早く頂戴!」「危ないから押さないで」。

「4カ月ほど防空壕に」

 開戦直後から困窮生活を強いられていた人々の声が錯綜する。米やマカロニ、食用油や塩など袋詰めして運んできた物資は50個ほど。とても全員に行き渡りそうにない。危険を察知したスタッフは車を移動して、近くの教会前で配布を始めた。

 物資を取りに来たガソリンスタンド店員・ターニャ(40)は、

「戦争が始まると商店はすべて閉まり、残っていたジャガイモやニンジンをシチューにして飢えをしのいでいました。戦闘が激しくなった解放前の最後の3日間は電気もガスも水道も止まってしまったのです」

 さらに、電気工のワディム(44)に話を聞くと、

「戦闘が始まって数日間、いたるところで銃撃がありました。町にロシア兵が来てからというもの、彼らは勝手に家に上がり込んで来て、食べ物を食べたり水を飲んだり、我が物顔でした。住民が殺される様子を見て防空壕に隠れ、4カ月ほどの間そこにいたのです」

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