下着の上にトランクスをはいてアメリカの高校に通った過去 一度も指摘してこなかった「自由の国」の人々(中川淳一郎)
本当にどうでもいいことに人間は悩み続けるものです。大学1年生の夏休みが明け、後期開始初日の1993年10月1日、語学のクラスメイト・N君が昼休みに「話がある」と真剣な顔で言ってきました。彼との間で何もトラブルはないし、彼の家は裕福なので借金を申し込まれることもなさそうなのにどうした?と訝しく感じましたが、二人してベンチへ。「あのさ」と言ってから彼は数秒黙りました。「早く言え! 気になるだろ!」と私は内心思いましたが、彼の口から出てきた言葉は拍子抜けするものでした。
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「オレはキミを『中川君』と呼んできたが、新学期にもなったことだし、『お前』『中川』と呼んでいいか?」
「当たり前だ、さっさとそうしろ!」
4月の初授業の時、苗字順に席に座りましたが我々は隣り合わせとなり、彼にとって初めて喋ったのが私でした。だから、最初は敬語で喋り「キミ」「中川君」と呼び始め、そのまま前期はその呼称が続き、夏休みに突入。彼にとっては5月ぐらいから「この呼び方、同級生で仲がいいヤツに対してよそよそしいよな。でも、どのタイミングで他のヤツと同じように『お前』『中川』にすべきなのだろうか……」と逡巡し続けていたことでしょう。
そして新学期開始というキリの良いタイミングで意を決し、この告白をしてきたのです。以来約29年、「お前」「中川」は維持されています。良かった良かった。
あと、中学1年生の3月、クラス替えの直前、私はAという男と何としても同じクラスになりたくなかった。とにかくエラソーなヤツで、ケンカも強く、登校時時々一緒になると自分がいかに強いかを自慢するのです。いつかこいつからぶん殴られる日が来るかも、と思い、少しでも距離を置いておきたかった。当時、私は運動のため、自宅の階段を1日100往復走って上り下りしていました。一段ずつ「(Aと)同じクラスになる・違うクラスになる」と心の中で言いながら上り下りし、最後の階段を下りた時に「同じクラスになる」の結果が出た時の落胆ぶりったら……。
そして本当に同じクラスになってしまいましたが、Aは2年生になり案外大人になったのか、ケンカ自慢はしなくなっていましたし、私を殴ることもなかった。一体何を心配していたのやら。
一方、「それはお前、重要だからキチンと解決すべきだったぞ」というものもあります。アメリカの高校へ通っていた時、ヤシの木などトロピカルな柄が雑然と配置されている赤地の短パンを発見。すっかり気に入って、これをブリーフの上にはいて学校に通い、放課後もコレで過ごしていました。
しかし、冬に入ってもこの手の短パンは店の同じコーナーに売られ続けている。下手すりゃマイナス25℃にもなる気温の低い街でしたから、いくらなんでも私も気付く。これはトランクスだったのです。別の言い方をすれば下着。なんと、私は下着を2枚重ね着し、公の場に出ていたのでした。一度も他人から指摘されませんでしたが、「変わったヤツだな」ぐらいにしか思われていなかったのかもしれません。さすがは自由の国アメリカ。