国交正常化50周年でも中国大使は田中角栄の墓参りができず…日中関係がこじれた“2つの行き違い”とは
一体何度謝れば…
謝罪の行き違いの二つ目は、「遺憾」の表現をめぐるものだ。
角栄は侵略戦争への反省から周恩来に対して、日中戦争について「はなはだ遺憾だ」と伝えた。6年後、来日した鄧小平に対して昭和天皇も「数々の不都合なことをして迷惑をおかけし、心から遺憾に思います」と述べたとされる。いわゆる戦争謝罪問題で、日本政府もその後、遺憾という言葉を使ってきた。しかし、中国では1989年に江沢民政権が発足して反日運動を強め、遺憾を謝罪の言葉と受け取らなくなってきた。自民社会さきがけ連立政権の村山富市総理はいわゆる村山談話で、「遺憾」から一歩踏み込んで、アジア近隣諸国へのお詫びを明言したが、今度は中国の朱鎔基首相が2000年10月に来日した際、「日本は文書で謝罪したことがない」……つまり口頭だけのお詫びで文書のお詫びがないと畳み掛けてきた。江沢民国家主席よりよほど開明的と見られていた朱鎔基にしてこのような状況なので、日本国内からは「一体何度謝れば気が済むのだ」という反発が広がり始めた。本来は、「どうやって謝罪すれば気が済むのだ」というのが正しい態度だろうが、回数に拘ったことから、謝罪問題でも日中間のすれ違いは大きくなっていく。
50年という節目に冷め切った日中関係。熟年離婚間際の夫婦を見るようだ。50年前にボタンの掛け違いがあったことはやむを得ない。しかし、その後の友好ムードにかまけて掛け違いを放置した結果、21世紀に入ってから日中双方の政治指導者は、掛け違いをナショナリズム発揚につなげるようになった。靖国参拝、尖閣などなど。永田町では、日中関係を改善しようとする政治家は白眼視され誰も手をつけたがらないと聞く。隣の大国と軍事的に争えば双方が傷つくことは明らかで、火中の栗を拾う勇気ある政治家……正にかつての角栄や大平が永田町に現れることを祈るばかりだ。
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