地上げの帝王「早坂太吉」に群がった著名人 砧の会長宅で小林旭がスポーツマッサージをしながら頼んだこと
いまや国際社会のなかでも“ひとり負け”の感が否めない日本経済だが、わずか30年前には未曾有のバブル景気に列島が沸き立っていた。当時、日本の地価の総額はアメリカ全体の4倍ともいわれ、土地・株・カネが飛び交う狂乱のなか、得体の知れないバブル紳士が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、数多のスキャンダルが世の中を賑わせた。令和の世とは何もかもがケタ違いな、バブル期を象徴する人々が関わった“事件”を振り返ってみたい。
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最上恒産の会長として、「地上げの帝王」の名をほしいままにした早坂太吉氏。巨万の富を築いた“紳士”の自宅には、融資を求める人々が連日のように列をなした。そのなかには、あの大スターの姿も。(本記事は「週刊新潮 別冊〈昭和とバブルの影法師〉2017年8月30日号」に掲載された内容を転載したものです)
狂乱の時代、人々はいま思えば異常な行動に駆り立てられた。西麻布に開店したホブソンズの前には、アイスクリームを買う長い行列ができた。クリスマスイヴの晩には、ラブホテルが建ち並ぶ渋谷の円山町はカップルがラッシュのようにひしめき、どのホテルにも行列ができていた。
同じころ、東京は世田谷区砧にあった早坂太吉の私邸にも、頻繁に行列ができていたが、狂乱時代にしても、少々風変わりな行列だったようだ。
「“おいっ、今月、大丈夫なのか?”と、いろんな人にお金のことで声をかけるのが好きでね。そこで“大丈夫です”と答えると不機嫌になるんです」
早坂のことを、当時の側近はこう述懐する。
「会長はお金のことで嫌とは言わない。“明日いくら必要です”という会話だけでいい。そんなだから、家には朝からお金を借りに客が来て、翌朝4時ごろまで途絶えなかった。“待たしとけ”って会長が言うから、みんな応接間に列を作って、10時間とか座りっ放しですよ。みなベンツだのセンチュリーだので来て、家の周りはその車列でいっぱいで、近所から苦情が来てました。会長は会社に行くヒマなんてないから、用件は電話で済ましていましたね」
早坂太吉の名が、代表取締役会長を務める最上恒産という社名とともに世に轟き渡ったのは、1986年のこと。申告所得が前年度の380倍におよぶ186億3千万円に跳ね上がり、この年の5月決算の法人会社3466社のなかで、いきなり第3位に躍り出たときだった。2年がかりで地上げした東京の西新宿の土地を、取得した数倍もの金額で売り抜いたのがその理由であった。以後、早坂は「地上げの帝王」の名をほしいままにする。
最上川に沿った山形県の片田舎の、大工を家業とする家に生まれた早坂。中学卒業後、しばらくの大工見習いののちに上京し、安価な建売住宅の販売を手はじめに土建業に勤しんできた男は、こうして「立志伝中の人物」と持てはやされるにいたったのである。
以来、小林旭がギター片手に登場するテレビCMが深夜に頻繁に流され、最上恒産の名はお茶の間にも知れ渡った。一方、82年に妻を亡くしていた早坂は、銀座のクラブのママと赤坂のマンションで同棲をはじめ、続いて彼女を砧の自宅に住まわせるようになった。
先の側近は、そのママが関係する銀座のクラブで早坂と知り合ったという。早坂が「地上げの帝王」の異名を得る直前のことだ。
「クラブからタクシーで会長をマンションまで送ると、会長は“名刺代わりだ”と、部屋から持ってきた1億円をくれたんです。思わず“えっ”と声が出ました」
だが、この側近は次第に、早坂のこうした行為に驚かなくなったという。
「会長は気に入った人物に会うといつも“名刺代わりだ”と言って1億円をポンッとあげるんです。1億円は横が60~70センチ、高さ20センチ、奥行き30センチくらいで中が真空のビニールに入ってて、100万円単位で帯封がついていた。砧の家の寝室裏にある隠し金庫には、1億円パックがいくつも入っていて、常時20億~30億円はあったんじゃないかな。赤坂の家にも何億かあった。私もビルを買収したくて夜、明日何億か借りられないか会長に相談に行ったら、“めんどくせぇ。持ってけ”って、金庫から出してくれたことがあった」
カネを借りるときは、ママに「会長に会わせて」と頼むところから始まったという。そのころは、
「会長とママはすごくいい雰囲気だったからね」
と、元側近は振り返る。
「最初、ママはカネに困っていてね、会長が借金を清算したんだよ。カネはあってもあか抜けない会長に贅沢を教えたのもママ。砧の家も木造2階建ての質素な家だったけど、ある時期に建て替えて床面積を広げ、地下にカラオケができるバーを設けたりしたんだ」
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