【鎌倉殿の13人】父子でも北条時政は義時と一触即発 背景に若妻「牧の方」との陰謀も

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時政が躓いた理由

 なぜ、時政は躓いたのか。牧の方の存在は大きい。『愚管抄』には時政が若き妻をもうけたという下りがある。牧の方の生年は不明だが、わざわざ慈円が書き残すほど評判の若妻だった。

 また、牧の方の実家は白河上皇と鳥羽上皇の院近臣(上皇らの側近)を輩出していた。公家(天皇や朝廷に仕える者)に近く、家格が高かった。おまけに牧の方自身が若かったので、時政にとって小躍りしたくなるような再婚相手だったのだろう。だから頑張り過ぎたのではないか。

 一方、朝雅は討伐された。朝雅は京都守護なので、義時が在京御家人たちに討たせた。朝雅は後鳥羽上皇のお気に入りだったものの、それが延命に結びつくことはなかった。上皇が名付け親で御台所は上皇の従妹である実朝を陥れようとしたのだから、当然の報いだろう。

 時政がその後、日の当たる場所に戻ることはなく、伊豆国北条で1215年に病死した。78歳だった。

 その後、牧の方は朝雅の妻だった実娘が、公卿(公家の中でも最高幹部として国政を担う者)の藤原国通と再婚したため、京に行き、一緒に暮らした。

 京での牧の方は時政を忘れ去った訳ではなく、1226年には時政の13回忌法要を営んでいる。公卿や公家が何人も出席する盛大なものだった。

 牧の方の女婿となった国通は1219年1月、鶴岡八幡宮(鎌倉)での実朝の右大臣任官の拝賀(報告と感謝)に京から出向き、参列した。そこで実朝の暗殺事件に遭遇することになる。

実朝の暗殺はなぜ防げなかったのか

「牧氏事件」での実朝暗殺計画は阻止されたが、今度は防げなかった。なぜか。まず暗殺者・公暁(寛一郎)の生い立ちを追いたい。

 公暁の幼名は善哉。頼家と正室・辻殿(北香那)との間の子供で1200年に誕生した。つまり頼家の嫡子(正室から生まれた長男)である。乳母夫(乳母の夫、教育担当)は三浦義村が務めた。

 源頼朝は辻殿の男子を「頼家の跡継ぎに」と考えていた。辻殿の祖父・源為朝が、頼朝の叔父であるのが理由の1つだった。このため、政子は善哉には目をかけた。6歳の時には鎌倉・鶴岡八幡宮の別当(長官)で天台宗僧侶である定暁の弟子にした。

 善哉が7歳になった1206年には実朝の猶子にした。同10月20日には大倉御所入りさせている。

「(頼家の)ご子息の若君が、尼御台所のご命令により、将軍家の御猶子となり、初めて幕府御所に入られた」(『吾妻鏡』)

 比企能員(佐藤二朗)の娘で頼家の側室だった若狭局(山谷花純)の男子・一幡(白井悠人)は6歳で殺された。それと比べると、確かに善哉は目をかけられていたのだろう。

 善哉は12歳になった1211年、政子の指示で近江国大津(現・滋賀県大津市)の園城寺で高僧・公胤の門弟の弟子となる。公暁の法名も授けられた。

 一方、実朝と後鳥羽上皇と御台所の間には一向に子供が生まれなかった。それでいて実朝は側室を持とうとしなかった。実朝は25歳だった1216年には「(将軍は)子孫が決してこれを継承するということはない」(『吾妻鏡』)と、源氏の断絶まで宣言している。

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