【鎌倉殿の13人】父子でも北条時政は義時と一触即発 背景に若妻「牧の方」との陰謀も
全50話弱の放送と予想されるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は第36話まで進んだ。現在、描かれている時代は1205年。北条時政(坂東彌十郎)と北条義時(小栗旬)が父子で源頼朝(大泉洋)の軍に加わってから25年が過ぎた。当時は仲の良かった2人だが、今の関係は一触即発。史書はどう記しているのか。
時政が孫の実朝を殺そうとした「牧氏事件」
「牧の方が奸謀をめぐらし、朝雅をもって関東の将軍となし、当将軍家〈時に遠州の亭におわします〉を謀り奉るべきのよし」(鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』)
意味は次の通り。牧の方(宮沢りえ)が悪だくみをめぐらし、女婿の平賀朝雅(山中崇)を鎌倉幕府の将軍とし、北条時政邸にいた現将軍・源実朝(柿澤勇人)の排除を謀った。「牧氏事件」のことである。
この陰謀が発覚したのは1205年閏7月19日。閏月は旧暦において季節と日付を合わせるためにあったもので、西暦では同9月11日。畠山重忠(中川大志)が執権・北条時政の命令で討たれてから約2カ月後だった。
「牧氏事件」について天台宗僧侶・慈円による史論書『愚管抄』はより直接的な表現をしている。実朝を討ち殺し、朝雅を将軍にしようと画策したと書いてある。
実朝は将軍に就いてから約2年。14歳だった。時政の孫であるのは言うまでもない。『吾妻鏡』は牧の方1人の単独犯としているものの、『愚管抄』には実朝を殺そうとしたのは時政とある。結局、2人は共同正犯だろう。
荒っぽい陰謀計画とその後
朝雅は偶然にも時政が権力の座から引きずり降ろした源頼家(金子大地)と同じ1182年生まれで、この時24歳。清和源氏の子孫で源頼朝の猶子(血縁のない子供)だった。京都守護(朝廷と幕府の連絡役)を務め、後鳥羽上皇(尾上松也)のお気に入りだったこともあり、時政と牧の方は肩入れしていた。
それにしても荒っぽい陰謀だった。2人がどうしてこんな強引な真似をしようとしたのかというと、時政が罪なき重忠を討伐させたことにより、御家人の不満が爆発寸前だったため。義時と尼御台所・政子(小池栄子)も時政との対立姿勢を鮮明にしていた。「鎌倉殿――」第36話の通りである。
追い詰められた時政と牧の方が形勢逆転を目論んで考えたのが、この陰謀である。しかし、実行前に露見する。
計画を知った政子は三浦義村(山本耕史)や結城朝光(高橋侃)らを実朝の居館でもある時政邸に急行させた。義村らは実朝の身柄を無事保護し、義時邸に移した(『吾妻鏡』)
これを機に時政が集めていた御家人たちも一斉に政子と義時側に転向し、時政邸を出た。戦わずして時政と牧の方の完敗が確定した。
『吾妻鏡』によると、時政は同19日のうちに出家する。正確に言うと、日付けは変わっており、丑の刻(午前2時前後)のことだった。同20日には出身地の伊豆国北条(現・伊豆の国市寺家)に返された。鎌倉からの追放である。
その後の時政について歌人で公家の藤原定家は日記『明月記』に「頼家卿のごとく伊豆に幽閉され」と書いている。時政は自分が力ずくで失脚させ、伊豆国修禅寺(現・静岡県伊豆市修善寺)に幽閉した頼家と同じ目に遭った。時政は68歳だった。
[1/3ページ]