サーフィンを再興、アロハシャツに革命 デューク・カハナモクに学ぶ金メダル獲得後の生き方(小林信也)

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ハワイ文化の発信者

 金メダリストになったデュークは、ハリウッド映画にも多数出演。フランク・シナトラら共演者たちがデュークのアロハシャツを着て登場するシーンもあった。それがアロハシャツの注目を高めた一因といわれる。デュークは単なる映画スターにとどまらず、ハワイ文化の発信者であり続けた。

 中でもデュークのいちばんの願いは、「愛するサーフィン文化の復活と普及」だった。

 かつて19世紀まで存在したハワイ王国の時代、サーフィンは人々の生活の一部といってもよかった。ところが、1930年代にはワイキキのビーチボーイだけが楽しむ程度に衰退していた。これを復活させたいと、デュークはサーフボードを携え、オーストラリアやアメリカ本土の海岸でサーフィンを紹介し、愛好者を増やす努力を重ねた。

 現代では見ることのない、巨大なサーフボードと一緒に写る写真がある。身長の3倍近いパパ・ヌイ(大きな板)と呼ばれるロングボード。細かなトリックを駆使する現代のサーフィンとは違い、シンプルに大きな波を乗りこなすサーフィンが得意だった。各地のデモンストレーションで、デュークが女性を肩車して波に乗る写真も残されている。

 65年には、自らの名を冠した「デューク・カハナモク・インビテーショナル」という大会を創設。全米にテレビ中継され、ブームの火付け役になった。この大会がなければ、サーフィンがプロスポーツとして発展することはなかったと多くの愛好者が語り継いでいる。

ライフセービングも

 デュークの人生の根幹を育てた母親の言葉がある。母はいつもこう言っていた。

「決して水を怖れず、可能な限り遠くにまで行ってごらんなさい」

 その精神が生かされた伝説もある。25年、カリフォルニアのデルマー・ビーチで、8人の釣り人が溺れる事件に遭遇した。デュークは、迷うことなくロングボードで沖合に進み、何度も往復して釣り人を救助した。これは、サーフボードを活用したライフセービングの礎にもなっている。

 もしデューク・カハナモクがこの世に存在していなかったら……。いま当たり前にあるもののいくつかが生まれなかったか、慎ましい普及にとどまっていたかもしれない。サーフィン、アロハシャツ、ライフセービング。ひとりの男の覚醒が現代に貴重な恩恵をもたらした。ハワイへのリスペクトやハワイ人の誇りさえも変わっていたに違いない。

 デュークの生き様に強く心を揺さぶられるのは、オリンピックの金メダルや2連覇が、彼の人生のほんの序章にすぎないことだ。五輪の金メダルが人生のゴールや最大の偉業のように理解されがちな現代の風潮の浅さを、デュークの生涯は気付かせてくれる。デュークは金メダルの栄光にとどまらなかった。それからの行動こそがデュークの真骨頂だ。サーフィンがスポーツという範疇に収まらない、もっとスピリチュアルな深さや広がりを持つ文化だという由縁も、デュークの生き様が見事に表現してくれている。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2022年9月22日号掲載

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