【鎌倉殿の13人】和歌を愛した源実朝の実像 もし28歳で公暁に暗殺されなかったら?
第35話まで終了したNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は現在、3代将軍・源実朝(柿澤勇人)の世。実朝が和歌を愛したのは知られている通り。単に好きだっただけでなく、後に正岡子規や小林秀雄らが高く評価するほどの才能の持ち主だった。また、初代の父・源頼朝(大泉洋)、2代の兄・源頼家(金子大地)とは違い、御家人に慕われた。史書から実朝の人物像を浮き彫りにしたい。
和歌に夢中になった実朝
「鎌倉殿――」に実朝が初めて登場したのは8月21日放送の第32話。1203年10月8日の元服の日が描かれた。この時の実朝は12歳。元服の約1カ月前の同9月7日には既に朝廷から征夷大将軍に任じられていた。
「幕下大将軍(頼朝)の二男の若君、関東(幕府が支配した国々)の長者(棟梁)として、去る七日に従五位下の位記と征夷大将軍の宣旨を下された」(鎌倉時代の公式記録『吾妻鏡』)
元服と同時に名前が千幡から実朝にあらためられた。この名が12歳年上の後鳥羽上皇(尾上松也)から与えられたものなのは知られている通り。
翌1204年12月、実朝は名門公家・坊門信清の娘(加藤小夏)を御台所に迎えた。上皇の従妹にあたる1歳年上の女性だった。実朝にとって上皇は名付け親であると同時に遠戚になった。
そんなこともあり、実朝は生涯にわたって上皇を「君」と仰ぐようになる。後白河法皇(西田敏行)と絶えず緊張関係にあった頼朝とは全く違った。
1213年に成立したと見られている実朝の歌集『金槐和歌集(金槐集)』にもこんな歌が収められている。
「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも(山が裂け海が干上がるような世であっても、上皇様を裏切ることは私にあっては決してありません)」(『金槐集』)
実朝は将軍になった直後から和歌も含めた教育を受け始めた。侍読(教育担当)には上皇の元近習(側近)で公家出身の源仲章(生田斗真)が就いた。
「(仲章が)関東の将軍の師になりて」(天台宗僧侶の慈円による史論書『愚管抄』)
一方で仲章は上皇から官吏養成教育を担当する文章博士を任じられる。また1206年には幕府の政所別当(政務官庁の長官の1人)に就く。仲章はあの時代のキーマンの1人となった。
ただし人物鑑定眼に定評のあった公家で大物歌人の藤原定家は仲章の能力を認めていなかった。
「才能の誉れ無しといえども、好んで書籍を集め、百家九流(中国の古代思想家の9流派)に通ず」(『明月記』)
まるで単なる読書家扱い。「鎌倉殿――」では京と鎌倉を往き来する怪しげな男として描かれているが、実際に立場を利用した二重スパイだったとの見方が古くから絶えない。
一方、実朝は習い始めて早々に和歌に夢中になり、将軍就任から約1年半後の1205年4月には自ら和歌を詠む。14歳の時だ。
「将軍家、十二首の和歌を詠ましめ給ふ」(『吾妻鏡』)。
同時期、実朝は鎌倉時代初期に成立した『新古今和歌集(新古今集)』に頼朝の和歌2首が収められていることを知り、同9月に『新古今集』を書き写させている。
『新古今集』は全20巻。後鳥羽上皇の院宣(命令書)により、定家ら名だたる歌人が選者となって編纂された。収められた和歌は約2000首で作者は西行、慈円、藤原良経ら歌人として一流だった人物ばかり。そこに割って入ったのだから、実朝は歌人としても評判が高かった。
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