「温かい目で見て」朝青龍を擁護した大鵬の品格 覚醒のきっかけはライバル・柏戸(小林信也)
昭和40年代、「巨人・大鵬・卵焼き」という有名なフレーズがあった。“圧倒的なナンバーワン”を象徴する三つの揺るぎないモノ。プロ野球で巨人は連覇を続け、大相撲で大鵬は毎場所のように優勝を重ねた。そして各家庭の食卓で卵焼きは子どもたちの定番人気メニューだった。
大鵬は悔しいけれど強かった。優勝32回、うち6連覇2度。後に白鵬に抜かれるが、あの双葉山ですら優勝は12回。当時は図抜けた記録だった。憎らしいほど強かったと書かないのは、憎くはなかったからだ。大鵬は後の横綱・北の湖のように不遜な表情ではなかった。ロシア人とのハーフといわれ(正しくは父親がウクライナ人)、色白で端正な顔立ち。土俵では喜怒哀楽をあらわにしない。懸命に挑む相手を淡々と退け、横綱の品格を見事に体現し続けた。
私は大関・豊山の大ファンだったから、常に豊山の前に立ちはだかる大鵬は厄介な存在だった。けれど、もうひとつ大鵬を憎いと思えない理由があった。家の近所、3軒先に大鵬ファンの“高橋さんのおばちゃん”がいた。「東京で働いている長男にそっくりだ」という理由で大鵬を熱烈に応援し、優勝するとカレーライスを作ってお祝いする。だから、大鵬が優勝を決めると、私はちゃっかりおばちゃんの家の食卓に座り、カレーライスをごちそうになった。おばちゃんは私がカレーライスをお代わりして大鵬の優勝を祝うのを喜んでくれた。
白鵬のしこ名の由来
横綱になって以後の大鵬しか私は見ていない。すでに盤石ともいえる強さをまとっていた。だが、改めてたどると、大鵬にもライバルに勝てない悔しい時期があった。
「柏鵬(はくほう)時代」という言葉がその手がかりだ。大鵬は同時代の横綱・柏戸と並び称された。平成の大横綱・白鵬のしこ名はこの読みに由来しているという。だが私にはずっと柏鵬時代という呼称がピンとこなかった。私の知る大鵬は柏戸をほとんど寄せ付けず、いつも圧倒していたからだ。
調べてようやくわかった。大鵬には、ふたつ年上の柏戸にあしらわれ、勝てない時期があった。それを乗り越える苦悶の年月に大鵬の覚醒があった。
初対決は1960年初場所12日目。21歳で身長188センチの小結柏戸が、全勝を続ける19歳で187センチの新入幕、大鵬を迎え撃つ。互いに筋骨隆々としている。いまのお相撲さんの肉がたっぷりついた体形と違う。無駄な肉はない。筋肉がみなぎって見える。ふたりともお腹はさほど出ていない。
両者が中腰のまま飛び出す立ち合いも今見ると新鮮だ。当時は両手を土俵に着ける必要がなかった。胸と胸とで激しく当たり合い、差し手争い、前へ前へと押し合う機敏な相撲。優勢なのは大鵬だ。右上手を取り、左手で柏戸の胸板を押す。一方の柏戸は守勢ながら大鵬の左手を懸命に右のはずでいなし続け、攻めあぐねた大鵬の体が一瞬伸びた、その隙を逃さなかった。柏戸の左下手出し投げが鮮やかに決まり、大鵬は頭から土俵に這いつくばった。柏戸の技と経験が若い大鵬を圧倒した一番だった。
次の対戦で大鵬は雪辱するが、両者が61年11月、同時に横綱に昇進するまでの対戦成績は柏戸の7勝4敗。柏戸が厚い壁だった。ライバルあっての成長。柏戸はまさに大鵬を覚醒させる糧だった。現役時代は言葉を交わさなかった柏戸について、大鵬は著書『巨人、大鵬、卵焼き』に記している。
〈あなたがいたからこそ大鵬があったと感謝している。最近も雑誌に「大鵬あっての柏戸」と書いてあったので「違います。柏戸あっての大鵬です」と訂正をお願いした〉
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