【鎌倉殿の13人】北条義時と三浦義村の悪だくみ ヒゲの和田義盛はなぜ討たれたのか

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和田合戦の勃発と終焉

 5月2日、義盛は挙兵した。義時を討つつもりだった。義時が相模国への干渉を強めているのも不満だった。

 一方、義時は最初から義盛を挑発し、挙兵させ、返り討ちにするつもりだったフシがある。能員も重忠もいなくなり、北条家の行く手を阻む可能性がある有力御家人は義盛のみだった。

 公家で歌人の藤原定家の日記『明月記』によると、義盛挙兵の直前、御所内では義盛を粛正する密議が行われていた。義盛もそれを知っていたようだ。義盛の挙兵は自分の身を守るためでもあった。

 義盛は無謀な戦いを挑んだわけではない。戦の当初こそ150騎ほどだったが、横山時兼ら板東の有力御家人らが加勢し、軍勢は約3000騎にまで膨れ上がった。義時への不満、義盛の人望の表れだろう。

 とはいえ、同じ三浦一族の義村に裏切られては勝てない。義盛は翌3日には早々と敗れてしまう。義村は土壇場で裏切り、事前に義盛の計画概要まで義時に伝えた。実朝が同日、態度を保留していた御家人に向けて義盛追討の命令を出したのも大きかった。

 義村は三浦一族の総領ながら、権勢は義盛の方が上回るほどだった。天台宗僧侶・慈円による史論書『愚管抄』にも三浦一族の長を義盛とする下りがある。義村としては義時に付き、一族の長の座を安泰にしたほうが得だと考えたとの見方もある。

 義盛が討ち死にした由比ヶ浜近くには江ノ島電鉄「和田塚駅」があり、そばには和田家の墓がある。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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