【鎌倉殿の13人】北条義時と三浦義村の悪だくみ ヒゲの和田義盛はなぜ討たれたのか
巴御前との暮らしはフィクション
「鎌倉殿――」の義盛は巴御前(秋元才加)と一緒に暮らしている。巴は木曽義仲(青木崇高)の愛妾で武者だったが、1184年の「宇治川の戦い」で義仲が討たれると、東国(北陸を除く近畿以東)に逃れた(軍記物語『平家物語』)。
同じく軍記物語の『源平盛衰記』には巴は捕らえられ、鎌倉に連行されて、死罪を言い渡されたが、義盛が「このような剛の者との子供が欲しい」と助命嘆願し、愛妾の1人にしたと記されている。面白い話だが、このエピソードはフィクションとの見方が支配的だ。巴との暮らしはなかったと考えられている。
義盛は源実朝(柿澤勇人)のお気に入りだったが、地位を望んだことにより、転落が始まった。義盛は63歳だった1109年、実朝に対し、上総介(現・千葉県中央部の上総国の国司、地方官)への推挙を願い出た。
上総介は官位で、現在の知事のようなもの。1184年に頼朝によって謀殺された上総介広常(佐藤浩市)もそう。広常は上総介と呼ばれていたが、本名は平広常である。
実朝は困った。国司の地位は源氏一門と京から来る官僚にのみ与えられていたからだ。政子(小池栄子)に相談したところ、「頼朝の時代に武士は国司に任じないと決めてある」と釘を刺されてしまった。
もっとも、政子の言葉はウソである。北条家は例外だったのだから。1200年には政時が遠江国(現・静岡県西部)の遠江守(国司の長)になり、義時は1204年から三浦一族の地盤である相模国の相模守を務めていた。もちろん、義盛もそれを知っており、だから頼んだ。
当時の義盛は拠点を三浦半島和田郷から上総国夷隅郡(現・千葉県いすみ市、大多喜町など)に移していた。余生を過ごそうとする土地で、上総介になりたかったのは不思議ではない。また、北条家が比企能員や重忠を抹殺する中、危機感も抱き、立場を築いておこうと考えたようだ。
しかし、義盛は上総介にはなれなかった。無理だと感じ、自ら願いを取り下げた。特別扱いされる北条家への不満が募った。
泉親衡の乱と和田家
義盛が上総介を望んだ4年後の1213年2月、「泉親衡の乱」が発覚した。信濃国(現・長野県と岐阜県中津川市の一部)の御家人・泉親衡による謀反の計画が露見したのだ。義時を討ち、実朝に代わる将軍を立てようとしたものだった。
この謀反の計画の首謀者とされたのは130余人。関与者は約200人いたと『吾妻鏡』には書かれている。
首謀者も関与者も捕らえられた。その中に義盛の息子の義直と義重、甥の胤長もいた。同3月8日、当時67歳の義盛は上総国夷隅郡から駆けつけ、実朝に対し、赦してやってほしいと頭を下げた(『吾妻鏡』)。
大倉御所でのことだった。実朝は義盛の長年の功績から、義直と義重は赦免した。だが、甥の胤長は謀反への関与が浅くなかったため、赦されなかった。
すると義盛は翌9日、また御所に来た。やはり胤長を赦してもらうためだ。今度は和田家の親族98人を引き連れていた。
しかし今度は実朝と会うことすらできず、義時から赦免できないと伝えられた。それどころか胤長は縄で後ろ手に縛られたまま、親族の前に出された。義時がやらせた(『吾妻鏡』)。
胤長本人にも義盛ら親族にとっても屈辱だった。さらに胤長は3月中に陸奥国岩瀬郡(現・福島県岩瀬郡)へ流罪になった。それを悲しんだ胤長の6歳の娘は病気になり、死んでしまった。
そのうえ、胤長の屋敷は一度、義盛に引き渡されたものの、1週間後に義時が自分のものにしてしまう。義盛の義時への怒りは頂点に達した。
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