【鎌倉殿の13人】北条義時と三浦義村の悪だくみ ヒゲの和田義盛はなぜ討たれたのか

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 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は前回34話で初代執権・北条時政(坂東彌十郎)と牧の方(宮沢りえ)の愛息・北条政範(中川翼)が京で死んだ。1204年11月のことである。これに端を発し、1205年6月に畠山重忠(中川大志)が討伐される。まだ終わらない。その次はヒゲ面の和田義盛(横田栄司)が討たれる。史書を辿る。

和田義盛という男とは

「鎌倉殿の13人」の第34話で、北条義時(小栗旬)と義盛は仲良く獣(しし)鍋を食べた。義盛が仕留めた鹿の肉をつまんだ。北条政範が死んだ直後だから、1204年11月ごろということになる。

 だが、1213年には義盛が義時への怒りを抑えられなくなり、討とうとする。「和田合戦」である。この間の9年間に一体何があったのか。

 まず義盛という人物について整理しておきたい。義盛は三浦一族の1人。当時の肖像画を見ると、「鎌倉殿――」と同じヒゲ面だった。

 三浦一族は相模国(現・神奈川県の大半)を地盤とし、三浦半島一帯(横須賀市、三浦市、葉山町)を本拠にしていた。一族の当主の城は同国三浦郡衣笠(現・横須賀市衣笠町)にあった。

 義盛の祖父は一族の第4代当主・三浦義明で、父親は義明の嫡男・杉本義宗。だが、義宗は跡を継がなかった。

 このため、三浦家の家督を継いだのは義明の次男・三浦義澄(佐藤B作)で、5代目となった。その跡は義澄の嫡男・三浦義村(山本耕史)が継いだ。なので、三浦一族の総領は義村である。

 義村とは父方の従兄弟となる義盛は、相模国三浦半島の南部にある和田郷(現・三浦市初声町)に城をつくり、和田姓を名乗った。この地は三浦一族最南端の拠点。海が近く、水軍の基地に絶好だった。

 義盛が生まれたのは1147年。義村のはっきりした生年は不明だが、1168年前後と見られるため、2人は親子ほど年が離れていた。義時も義盛より16歳下。「鎌倉殿――」での義村と義時は義盛を舐めているのだ。

 一方、源頼朝(大泉洋)は当初から義盛を気に入っていた。源平合戦が始まってから約3カ月後の1180年11月には義盛を侍所別当(軍事・警察組織の長官)に任じた。大役だ。義盛、33歳の時だった。

 源平合戦の開始直後の同8月、頼朝が「石橋山の戦い」に敗れ、相模国足柄下郡石橋山(現小田原市)から安房国(千葉県南部)へ船で逃げる途中、義盛が頼朝に対し、侍所別当にしてほしいと頼んだからだった。

「(それからの頼朝の)ご安否がまだ定まっていなかったところに、義盛がこの職を望み、認められた。立場が(義盛より)上の人を超えて任命された」(鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』)

 敗走中の船の中で地位をねだったのだから、義盛はおおらかで型破りな男だった。そんなところを頼朝も気に入ったのだろう。

 侍所は大蔵御所の西側にあり、18間もあった(『吾妻鏡』)。同12月に行われた義盛の事実上の侍所別当就任式には312人の御家人が出仕した。義盛は若くして一大権力者となった。

梶原景時に騙される

 だが、それは長く続かなかった。1192年、侍所所司(次席)だった梶原景時(中村獅童)から「別当の職を少しの間、借りたい」と頼まれ、義盛は喪中だったこともあって承諾すると、景時はその後も別当の座を返してくれなかった(『吾妻鏡』)。

 なんとも間の抜けた話である。義盛がやっと別当に復帰できたのは景時が失脚した1200年1月になってからだった。

 その後の義盛は幕府に忠誠を尽くす一方、北条家に協力した。時政が自分にとって邪魔な比企能員(佐藤二朗)の排除を図った「比企の乱」(1203年)では源頼家(金子大地)から時政の追討を命じられても従わなかった。

 やはり時政が畠山重忠を謀殺した「畠山重忠の乱」(1205年)でも先頭に立った。もっとも、これは仇討ちでもあった。義盛と義村の祖父・義明は源平合戦開始から間もない「衣笠城の戦い」(1180年9月)で重忠に討たれた。当時の重忠は平家方だった。

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