「ちむどんどん」は朝ドラ史上最も物議を醸した作品 観ていない方のために3分でストーリーを解説

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 NHK連続テレビ小説は1961年に放送が始まり、前作までで105作が放送されたが、現在の「ちむどんどん」ほど物議を醸した作品はなかったはずだ。最終回が9月30日に迫った。そもそも、どんな作品だったのか? 駆け足で振り返りたい。

■第1週(4月11日~15日)「シークワサーの少女」

 時代は1964年で舞台は沖縄県北部にある山原村。ヒロインの暢子(稲垣来泉)は1954年生まれの小5。筋金入りの食いしん坊だった。

 両親は比嘉賢三(大森南朋)と優子(仲間由紀恵)。2人でサトウキビ農業を営んでいた。

 暢子は次女。長男は賢秀(浅川大治)で1949年生まれの中3。飼っているブタの世話はするが、あとは遊んでばかりの少年だった。

 長女・良子(土屋希乃)は1950年生まれで中2。成績優秀で先生になるのが夢だった。3女の歌子(布施愛織)は1955年生まれで小3。歌がうまい。一方で体が弱く、内気だった。

 大学教授の青柳史彦(戸次重幸)と中3の息子・和彦(田中奏生)が、3カ月限定で山原村にやって来た。史彦の沖縄文化の研究が目的だった。

 比嘉家の近所には沖縄豆腐店「とうふ砂川」があり、賢秀の同級生で働き者の砂川智(宮下柚百)が住んでいた。歌子は智を慕っていた。

 賢三が農作業中に心臓発作で倒れる。

■第2週(4月18日~22日)「別れの沖縄そば」

 賢三が逝く。比嘉家には借金があったことから、その返済のため、優子は工事現場で働き始める。家事は4兄妹が分担してやることに。暢子は料理担当になる。

 東京に住む賢三の叔母から優子のところへ「子供を1人、面倒見てもいい」という手紙が届いた。

 賢三の叔母とは、暢子が第6週(5月16日~20日)の第29話から働く東京・銀座のイタリアン・レストラン「アッラ・フォンターナ」のオーナー・大城房子(原田美枝子)だった。だが、それを暢子が知ったのは第9週(6月6日~6月10日)の第42話になってから。

 暢子は房子に預けられるはずだったものの、上京のためのバスを途中で降り、家族の元に帰る。

■第3週(4月25日~29日)「悩めるサーターアンダギー」

 子役の登場が終わり、ここからの出演者は現在と同じ。時代は1971年9月。暢子(黒島結菜)は山原高の3年になっていた。良子(川口春奈)は短大を卒業し、地元小学校で教師に。歌子(上白石萌歌)は山原高の1年。音楽教師・下地響子(片桐はいり)に歌の才能を買われていた。賢秀(竜星涼)は高校を中退後、ぶらぶらしていた。

■第4週(5月2日~6日)「青春ナポリタン」

 暢子が山原高調理部の助っ人として参加した「北部産業まつり ヤング大会」が行われた。北部地域の高校の調理部が料理を競うものだった。

 同高調理部は暢子のアイディアによる「やんばるナポリタン」で優勝。気を良くした暢子は来場者の前で「東京で料理人になりたい!」と宣言する。

 賢秀が我那覇良昭(田久保宗稔)による通貨交換サギに引っ掛かる。

■第5週(5月9日~13日)「フーチャンプルーの涙」

 賢秀が騙されたので比嘉家にはカネがなくなり、暢子が東京で料理人になる夢は消滅。賢秀は家出した。

 暢子は地元企業への就職を決めた。その矢先、賢秀から60万円が届く。賢秀はプロボクサーになっていた。比嘉家の借金問題は解決。暢子は上京できることになった(沖縄編終了)。

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