【鎌倉殿の13人】陰謀で墓穴、2年で失脚した北条時政 「畠山重忠の乱」「牧氏事件」で1番得した人は
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は前回第33話で源実朝(嶺岸煌桜)が第3代将軍になった。とはいえ、当時の実朝は12歳。政治を実際に動かしたのは祖父で初代執権の北条時政(坂東彌十郎)である。だが、時政は僅か2年で失脚する。2代目執権には息子の北条義時(小栗旬)が就く。何があったのか。史書を辿る。
2代将軍・源頼家(金子大地)は1203年9月2日の「比企の乱」によって失脚した。実朝が3代将軍になったのは同7日。すべて時政の書いたシナリオ通りだった。
時政は実朝政権下で政所の別当(政務の中心官庁の長官)に就く。政所別当は複数制で、大江広元(栗原英雄)もそうだったが、時政は筆頭別当。つまり執権だった。
これを天台宗僧侶・慈円は史論書『愚管抄』にこう書いている。
「祖父の北条が世に関東は成て(関東は実朝の祖父・北条時政の世になった)」(『愚管抄』)
この時、時政は65歳。1180年に頼朝軍に加わって以来の絶頂期だった。
だが、それは長く続かなかった。執権になってから2年目の1204年11月、跡継ぎにするつもりだったと見られる牧の方(宮沢りえ)との息子・北条政範(中川翼)に死なれてしまう。
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によると、政範は京で病死した。13歳になった実朝が、京から名門公家出身の信子を正室として迎えることになったため、政範は使者の1人として京に入っていた。まだ16歳だった。
時政と牧の方は深く悲しんだ。その直後、京で女婿の平賀朝雅(山中崇)と畠山重保が酒席で激しい口論をしていたことを知る。政範の死の前日だ。時政と牧の方は重保を逆恨みした。
重保は畠山重忠(中川大志)の嫡男。重忠も時政の女婿である。けれど時政と牧の方は朝雅に肩入れしており、憎悪は畠山家にのみ向けられた。
そもそも時政と重忠の関係は以前から冷えていた。武蔵国比企郡(現・埼玉県比企郡と東松山市)を所領としていた比企能員(佐藤二朗)が滅んだ後、時政が同国(現・東京都、埼玉県および川崎市、横浜市)への関与を強めていたためだ。
同国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山付近)を所領とし、同国留守所検校職(在庁官人の主席)の重忠としては気になっただろう。時政にとっても重忠は目障りな存在になっていたはずだ。
1205年6月21日の『吾妻鏡』によると、時政は義時と弟の北条時房(瀬戸康史)を呼び、重忠を討つよう命じた。「畠山重忠の乱」の幕開けである。時政は2人対し、重忠は謀反を起こそうとしていると説いた。だが、義時は承服しなかった。
これまで義時は時政の指示に表立って抵抗したことがなかったが、重忠討伐だけは違った。誠実な重忠が謀反を企てるはずがないと時政に訴えた。また、重忠は源平合戦や幕府運営の功労者であることも強調した。
だが、最終的に義時は時政に従わざるを得なかった。父親であるうえ執権だから、抗い続けるわけにはいかない。この時、義時は43歳、重忠は42歳。2人は長く苦楽を共にした間柄だった。
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