デビュー48年「中村雅俊」が語る 青春ドラマ、松田優作さん、おしん秘話
松田優作さんにはあきれられていた
――文学座の1年先輩である故・松田優作さんと刑事役でダブル主演した日本テレビ「俺たちの勲章」(1975年)も当時の若者の熱烈な支持を得ました。
中村「プロデューサーは『俺たちの旅』と同じ岡田さん。松田さんが出演していた『太陽にほえろ!』もそうでしたから、松田さんとの共演はごく自然に決まりました。当時は意識したことがありませんでしたが、ドラマ界で初めてのバディものだったんですね」
――松田さんは自分に厳しい一方、共演者、スタッフ、脚本家にも厳格だったことで知られています。中村さんにはどうでしたか。
中村「いや、俺に対してはあきれていましたよ(笑)」
――どうして?
中村「俺って芸能人の自覚がなかったんですよ。悪い言い方をすると、学生気分のままでやっているみたいなところがあった。一方、松田さんはプロ意識が強く、自分がプロとしてやっていいことと悪いことの区別をはっきり付けていた。そんな境目なんてない俺にあきれていたんです。ところが、やがては松田さん側が折れるような形で、俺と同じようなことをすることが結構ありました」
――中村さんと似たことを優作さんがやったとは?
中村「例えば松田さんはスタッフに厳しかったので、スタッフの誰かが『優作』と呼ぶと、『優作さんと呼べ!』と注意した。ところが、俺があまりにもルーズで、スタッフと仲良くするものだから、この現場では松田さんもそうなりました(笑)」
――優作さんから中村さんへの指導はなかったんですか。
中村「俺が歌をうたっていることに対して、『役者は歌をうたっちゃ駄目なんだよ』と言っていました」
――優作さんも歌いましたよね。翌1976年に初アルバム「まつりうた」をリリースしました。
中村「そうなんですよ(笑)。ただ、意見してくれたのは松田さんの優しさ。どうでもいいと思う相手には何も言いませんから。いい先輩でした。時々思い出すんですよ。『生きていたら、また文句ばっかり言っているんだろうなぁ』とか(笑)。酒の席だったら『最近の芸能界、役者の世界はどうなっているんだ! 俺を誰だと思ってるんだ!』とか絶対に言っていると思います」
――優作さんが1989年に亡くってから33年になります。「俺たちの勲章」以降、共演がありませんでした。
中村「松田さんが40歳の若さで亡くなった時、俺は38歳。当時はいつでも共演できると思っていたものですからね…。松田さんが生きていたら、共演する機会が絶対にあったでしょう。同じ文学座で出会い、若いころはマネージャーも同じ。全く性格の違う従兄弟同士みたいな意識がありました。だけど、頻繁に共演はしたくなかったかな(笑)。たぶん向こうもそう思っていたでしょうけど」
――1980年以降も数々の話題作に主演しました。これは主演ではありませんが、1983年のNHK連続テレビ小説「おしん」での脱走兵・俊作役は今も語り草です。
中村「あれは橋田壽賀子さんに半ば強引に誘われて出演したんですよ。1981年に橋田さん作の大河ドラマ『おんな太閤記』に豊臣秀吉(西田敏行)の弟の秀長役で出たら、橋田さんが『雅俊、今度は『おしん』に出てくれない』って言うんです。俺が『いや、ちょっと』と断ったら、橋田さんが『ダメ!』って(笑)。『出番は1週間分くらいしかないから』とも言われました」
――俊作が、日々の暮らしが辛くて奉公先を飛び出した少女編のおしん(小林綾子)と出会い、「決して人を恨んだり、憎んだり、傷つけたりしてはいけないぞ」などと説きました。短期間の出演とは思えないほど印象深い役でした。
中村「みんなから『1週間しか出ていなかったのか』と驚かれます。得をしたような役をいただきました(笑)」
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