【鎌倉殿の13人】謀略家か知恵者か…三浦義村が最後まで北条家に付いていった謎に迫る

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政子の詰問

 それから間もなく、また揉め事が起こる。義時の次の執権の座を巡る「伊賀氏事件」(同)である。義時が比奈(姫の前、堀田真由)との離縁後に迎えた継妻・伊賀の方が、3代目執権に嫡男の泰時ではなく、自分と義時の子である北条政村を据えようとした。将軍も女婿・一条実雅にやらせようと画策した(『吾妻鏡』)

 伊賀の方たちは政村の烏帽子親(元服する時、烏帽子を被せた人)である義村に接近した。抱き込みを図った。

 その動きを察知した政子は義村邸を訪ね、伊賀の方に加担するのかと詰問。義村は否定し、泰時への忠誠を誓った。これにより伊賀の方の計画は失敗。執権には泰時が就いた。

 翌1225年には政子も他界した。享年69。この時も義村が権力闘争に走ることはなかった。

 同年、義村は13人の合議制をモデルに泰時が設けた政務の最高機関「評定衆」の一員になり、幕府の最上級幹部に登り詰めた。

 義村が乳母夫を務めた公暁を殺そうが、三浦一族の義盛を裏切ろうが、弟・胤義と争うことになろうが、最後まで北条家に付いていった。その真意は分からない。謎だ。ただし、北条家の陰に隠れている存在だったことから、命を狙われる機会が少なく、71歳前後だった1139年まで生きた。

 やはり知恵者だったのだろう。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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