【鎌倉殿の13人】謀略家か知恵者か…三浦義村が最後まで北条家に付いていった謎に迫る
どこまでも北条家の味方
「比企の乱」(1203年)、「畠山重忠の乱」(1205年)でも義村は北条家の側に立った。三浦一族の和田義盛による反乱「和田合戦」(1213年)でもそれは変わらなかった。
『吾妻鏡』によると、義盛は同5月2日、親戚や仲間ら約150人を引き連れ、大倉御所などを襲った。義盛が反乱を起こした理由は権力への色気ではなく、1205年から2代目執権を務めていた義時の横暴に対する不満。加えて義時が自分たちの支配下にある相模国への影響力を強めてきたことへの怒りだった。
しかし、義盛勢は挙兵2日目には敗れてしまう。義盛は戦死した。義時が瞬く間に勝てた理由の1つは、三浦一族の棟梁である義村が味方になってくれたからだった。
義村は義盛に対して起請文(神仏に誓う文書)まで書き、「共に北条家と戦う」と約束していたが、裏切った。そればかりか義盛勢の情報を義時に流していた。
とはいえ、義村の裏切りは御家人の間で評判が悪かった。鎌倉時代に書かれた公家の橘成季による説話集『古今著聞集』によると、「和田合戦」から数年後、御家人たちが実朝への新年の挨拶のために、大倉御所に集まった時、義村の裏切りに関わる一騒動があった。
この日、義村は早々と大倉御所に到着し、上座に座っていた。ところが、後からやってきた千葉胤綱が、さらに上座に座った。無礼な行為だ。
胤綱は千葉常胤(岡本信人)の嫡男で下総国(現・千葉県北部と茨城県南西部、東京都東部)を支配していた。義村より30歳前後も若かった。
義村は胤綱に対し「下総の犬は自分の寝床も知らない」と苦言を呈した。すると胤綱は「三浦の犬は友を食らう」と言い返した。友とは死んだ義盛のこと。北条派の義村への風当たりの強さを表すエピソードだ。
1219年、公暁(寛一郎)が実朝を鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺した際も北条側に付いた。『吾妻鏡』によると、公暁は実朝を殺害した後、自らの乳母夫である義村に対し、「自分が東関(関東)の長になるので、取り計らうように」と使者を通じて伝えた。公暁は義村を信頼していた。
弟よりも北条家
これを受けて義村は公暁に対し「迎えを出すので、自邸に来るように」と告げた。だが、公暁は義村邸に向かう途中、殺害された。義時の意向を受けた義村が家人にやらせた。義村には北条家を裏切って公暁を担ぐ気はなかった。
実朝が後鳥羽上皇(尾上松也)の従兄妹である坊門信子を正室に迎えたこともあって、幕府と朝廷の関係は極めて良好な状態が続いていたが、実朝の死によって流れがガラリと変わる。両者の関係はみるみる悪化。上皇にとって自分の指示に従わない執権の義時は邪魔な存在だった。
1221年、ついに上皇は義時の排除に向けて動く。まず京にいる幕府の人間の抱き込みを図った。狙われた1人が検非違使(京の警察)をしていた三浦胤義。義村の実弟だ。
さらに上皇は同4月、京近隣の武士ら1000余騎を集めた。翌5月には義村ら8人の有力御家人に向けて義時追討の院宣(上皇の命令)を出した。また、全国の武士にも義時追討を命じる文書を出した。上皇と義時の戦い「承久の乱」の幕が開いた(軍記物『承久記』)
義村への院宣が京から鎌倉に届く直前、胤義からの使者が義村の元に到着し、こう書かれた書状を出した。
「義時を謀殺せよと院(上皇)からの仰せを賜った」(胤義の書状)
胤義は上皇側の主力メンバーになっていた。それでも義村はやっぱり北条家に付く。この書状の件も義時に知らせた。
義村が上皇の意図を知らせてくれたお陰で義時は初期対応に成功する。院宣を持ってきた使者を取り押さえ、全国の武士への文書も回収できた。
義時は上皇と戦うことを決意。同5月22日、まず、嫡男の北条泰時(坂口健太郎)に僅かな兵を率いさせ、京へ向かわせた。
「(泰時が)京都に進発す。従軍、18騎なり」(『吾妻鏡』)
その後、御家人たちが続々と泰時の後を追い、地方の武士も幕府軍に加わった。最終的に兵力は20万騎近くに達した。
勝ち目がなくなった上皇は同6月15日、院宣を撤回。敗北を認めた。胤義は自害した。
その3年後の1224年、義時は死去した。享年62。政子が尼将軍を務め、幼い三寅(4代将軍・藤原頼経)の後見人をしている時期だった。
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