元祖甲子園のアイドル・太田幸司 決勝戦の裏側を本人が明かす(小林信也)

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 青森県代表の三沢高は1969年夏の甲子園で、東北勢として初の優勝に王手をかけた。決勝では春夏の優勝4回の実績を誇る名門・松山商と対戦。双方が延長18回まで譲らず、0対0で再試合となった。

 松山商のエースは井上明。18回、232球を投げ抜いた。三沢高のエースは太田幸司。やはり18回、262球をひとりで投げ切った。

「延長に入ると、体はもう疲れて重い、腕に力が入らない、だけどボールだけはブンブン行くので驚きました。自分から見てもすごいボールでした」

 太田幸司が、あの日の投球を振り返る。

「大阪の暑さ、新幹線を降りた時の熱風には参りました。でも、262球くらいは大した数ではありません。練習では毎日300球は投げていたし、大会前の合宿では500球の投げ込みが当たり前でした」

 日本人と外国人の両親から生まれた端正な顔立ちの太田幸司が黙々と投げる姿は、日本中の感動を呼んだ。ことに女子高生たちの胸を熱く躍らせた。当時はまだ、甲子園球児に女子たちが黄色い歓声を上げる光景など珍しかったが、太田は一躍、人気者になった。元祖・甲子園アイドルと呼ばれ、後に登場する箕島・島本講平、早稲田実・荒木大輔らの先駆け的存在になった。

再試合でため息

 決勝再試合は翌日。

「2年生に球の速い投手がいたのですが、試合で投げた経験もないし、自分が投げないわけにいかないだろうと覚悟していました」

 まだ、球数制限とか、投げすぎは危険だという概念もないに等しい時代。夏の大会ではエースが連投して勝ち進むことが常識だった。だから、再試合でも太田と井上の先発を多くのファンが疑わなかった。

「朝、布団から起き上がれなかった。ようやく起き上がったけど、腕が上がらない。歯磨きもできない。ごはんを食べるとき、箸を口に持っていけない」

 右肩はパンパンだった。やはり、合宿で投げる500球と、甲子園の決勝で「1点もやれない重圧」の中で投げる262球の負荷は比較にならなかった。

「再試合で投げられるのか、不安でした。でも甲子園に入って、あの満員の雰囲気の中で動き始めたらテンションが上がったのか、肩が回るようになりました」

 もちろん、本調子にはほど遠かった。

「試合が始まって、バンと投げると顔が一塁方向に向きますよね。すぐ打者に目を向ける、前の日はズバンと捕手のミットに収まっていたのにボールがまだふらふら宙に浮いていた。これはダメだって(笑)」

 直後、3番打者に2ランホームランを浴びた。1回表に早くも前日からの均衡が破れた。三沢も1回裏、井上からついに1点を奪う。

「井上も疲れている。きついけど、粘り強く投げたら勝てるかもしれない、そう思ったら松山商はすぐ投手を左腕の中村(哲)に代えた。この中村が元気で、ものすごい球を投げてきた。うちは左投手が苦手だし、これは厳しいなあと」

 お手上げの表情で太田がため息をついた。太田はカーブを多投し、粘り強く投げたが、6回表に2点を追加された。三沢も7回裏に1点を返すが反撃はそれまでだった。しかし、東北勢では第1回大会の秋田中以来の準優勝。健気な姿は人々の胸を深く揺さぶった。

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