「高橋治之元理事」逮捕で思い出す「シュランツ事件」 50年前の「札幌五輪」が商業化の“転換点”だった

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「シュランツ事件」のその後

 さて、50年前の札幌五輪では、シュランツへの制裁に怒ったオーストリア選手団がボイコットして引き上げようとしたが、シュランツの説得で思いとどまり、参加を続けた。失意のままに1人で帰国したシュランツは祖国で英雄として迎えられたというが、その後すぐに引退した。

 当時、IOC総会では、「アマ規定違反選手」の名が、欧州選手を中心に他にも多く上がっていたが、すべて失格にすれば大会が崩壊する。それを防ぐためにIOC委員が「ブランデージ会長の面子のためにシュランツだけを生贄にした」とも言われる。

 1991年、読売新聞の取材によれば、祖国でスキーロッジを経営するシュランツは、事件について「アマチュアリズムでは金持ちしかスポーツを楽しめない。僕の失格がきっかけで、その後の選手は公然とお金をもらえるようになった」「その役に立ったと考えるとうれしいね」と語ったという。

 もちろん、選手は時代のルールには基本的に従うべきではある。しかし、行きつくところまで行った商業五輪を見るたび、当時、流行した長髪姿で無念の会見をするシュランツの姿を思い出す。

 そんな彼は現在83歳。半世紀前、札幌で世界最高峰のスキー捌きを披露しないまま帰国した「失意のヒーロー」は、表彰台で誇らしげにメーカーの名入りのスキー板を誇示する選手らを見て、一体、どんな気持ちなのだろうか。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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