アラフィフになった元「援助交際少女」 娘をもったいま「パパ活女子」に思うこと
「援助交際」が流行語大賞にノミネートされたのは1996年の事だった。あれから四半世紀以上が経ついまも、似たような行為は名前を変えて続いている。かつての「援交少女」はどう生きているのだろうか。『売る男、買う女』(新潮社)などの著書があり、自身も夜の世界の仕事で働いた経験のあるノンフィクション作家の酒井あゆみ氏が取材した。
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「今は『PJ』とか『オトナ』、『部屋』、とかいろんな言われかたをされているらしいけど、……要は私の時代とやってることは同じだよね」
表だって遊ぶことが難しくなったコロナ禍で、市場が拡大した「パパ活」。かつて援助交際をしていた貴子(仮名=45歳=)に率直な意見を聞いてみると、こんな返事が返ってきた。
「親が自分の子供の下着をネットで売ったりしてるってニュースも見たけど、タチ悪すぎ。貧困のせいにしている話もあって、信じられないよ」
貴子はおよそ30年前、高校生の頃にデートクラブに出入りし、ときに身体を売って稼いできた。「援助交際」という言葉が世間の注目をあつめる少し前の時期である。今日のパパ活につながる“素人の女性による個人売春”の系譜でいえば、その第一世代とも言える存在だ。そんな元当事者の意見は「パパ活なんて気持ち悪い」とあまりにもマトモ。自分ではなく、娘を重ねあわせて考えているのだろう。
貴子の娘はもうすぐ15歳になる。まさしく貴子が「エンコー」を始めた年代だ。
「あの子にはそういう心配は無いと思うなぁ。いまだに私の寝室のベッドの横に布団ひいて寝てる。自分が部屋あるのに、一人じゃ寝れないんだって。しかも、いまだに私が買ってきたキャラクター物のパンツ履いてるし」
パパ活女子については「本人がやりたきゃいいんじゃん」というスタンス。でも娘がパパ活をするといったら「全力で止める」。自分の過去を後悔しているわけではないが、自分と同じようなことを娘にはさせたくない。一見矛盾のようだが、本音なのだろう。
貴子のことは女子高校生だった当時から知っているから、すっかり“母”となったその変わりようはほほえましくもある。その頃、私は渋谷に事務所を構えており、部屋は女の子たちが時間を潰す場所に使われていた。当時の貴子のように居場所を見つけられない子たちばかりだった。特定されないよう微妙に立場を変えて、私のルポ記事に登場してもらったこともある。
個人的に、インタビュー後の取材対象者とは連絡を取らないようにしている。過去のことを隠したい相手にとって、私との繋がりは邪魔でしかないからだ。だが貴子との関係はつづき、結婚式に呼んでくれたこともある。数年前に離婚した際には「ご祝儀くれたのに別れちゃった」という連絡までくれた。だからこうして度々会い、近況を尋ねている。
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