松田聖子を発掘したプロデューサーが明かす「衝撃の出会い」 母娘関係の実像とは

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「気が乗らない」

 聖子の歌手デビューは昭和55年。この年に引退を表明した山口百恵(63)と入れ替わるように、彼女は次々とヒットを量産した。

「4作目のシングル『チェリーブラッサム』では、初めて作曲担当を交代させました。小田(裕一郎・故人)さんが手がけた2作目の『青い珊瑚礁』と3作目の『風は秋色』は、ともにミリオンセラーの大ヒットを記録しましたが、新たな挑戦ということで、チューリップでリーダーを務めていた財津(和夫)さん(74)にお願いしたんです」

 ところがこの時、聖子は意外な反骨心を見せつける。

「初めてのロック色が濃い曲に違和感を覚えたようです。レコーディングの当日なのに“気が乗らない”と言い出しましてね。やむなくその日は解散して、数日後に仕切り直しをしましたが、この日もまったく同じ態度。言い合いをする私たちを見かねて、エンジニアが“若松さんがこれだけ言ってるんだから”とお願いすると、ようやく“分かりました。歌います”と言ってくれました」

歌詞カードには書き込みがビッシリ

 その際の聖子に、スターの片鱗を垣間見たという。

「歌に迎合せず、むしろ反発しながらも自分のものにする力が卓越している。スタジオで使う歌詞カードには、自分なりの考えや解釈みたいな細かい書き込みがビッシリとありましたね」

 若松氏の回想は、昨年12月に死去した聖子の娘・神田沙也加にも及んだ。

「沙也加ちゃんには母親譲りの抜群の歌唱力に加えて、歌詞の感じ方や文才、そして表現力に卓越した魅力がありました。聖子の意見は私とは異なるかもしれませんが、実の母娘ですからそれも無理からぬこと。赤の他人の私のように娘を客観視することは難しかったでしょうし、互いの距離が近過ぎて気付けないこともあったでしょうから」

 44年前に二人をつないだカセットテープは、いまも若松氏の手元に残っている。

週刊新潮 2022年8月11・18日号掲載

ワイド特集「夏の思い出」より

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