短い栄光とその後の不遇… 一度も優勝できなかった大関・豊山(小林信也)
徳俵に足もかけず
優勝のチャンスは幾度となくあった。
1964年7月場所では11日目に単独首位に立つ。が、12日目に大関栃光、14日目は横綱栃ノ海に敗れ、平幕の富士錦に優勝を譲ってしまう。
ライバルの佐田の山に大事な一番で敗れ、悔しくて、お風呂の中で唇をかみ、涙を流した思い出もある。
最も心に深く刻まれた一番は、私が小学校5年の終わり、68年3月場所だ。
13日目に単独首位に立ったが、14日目、小結麒麟児にうっちゃりで敗れた。それでも2敗で、平幕の若浪とともにトップ。千秋楽の本割で勝ち、決定戦になっても細身の若浪を一蹴すれば初の賜杯に手が届く。
(ついにこの日が来た)
思いがけず長く待ち焦がれた優勝の瞬間を、私は手に汗握り、テレビの前で待った。
千秋楽の相手は関脇清国。豊山に似て、穏やかな顔立ちの力士だ。闘志を前面に出してくるタイプではない。
祈る思いで画面を見つめた。その日その時の光景をいまもはっきり覚えている。なぜか、祖父母の家の小さな洋間でひとり見ていた。
行司の軍配が返る。清国がまっすぐ押し込んで来る。豊山は、勢いに押されたというより、自分から後ずさり、徳俵に足もかけず無雑作に俵を踏み越えた。
(えっ!)
信じられない光景だった。その瞬間、緊張の糸が切れ、7年間もずっと恋焦がれ続けた豊山への思いは風船が弾けるように消え去った。半年後、豊山は引退。
それから私の憧憬は相撲から高校野球を経てプロ野球、豊山から地元の高校球児そして長嶋茂雄へと移っていった。思えば、その挫折感こそがスポーツライター小林信也の原体験だった。
25歳で雑誌「ナンバー」のスタッフとなり、最初に訪ねた相撲部屋が時津風部屋だった。そこには双葉山、鏡里の後を継いで師匠になった元豊山の姿があった。けれど、私の中には懐かしさよりあの日の失望と落胆ばかりがよみがえり、名乗ることさえできなかった。
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