短い栄光とその後の不遇… 一度も優勝できなかった大関・豊山(小林信也)

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大学出身力士

 入幕してからは、場所が始まればテレビにかじりついて応援する毎日となった。幕に上がって「豊山」としこ名を変えた内田は、新入幕で12勝3敗、敢闘賞を受賞した。

(僕の豊山は強い! 大鵬にだって、きっと勝つぞ)

 ちょうど大鵬が横綱になり、毎場所のように優勝を独占し始めた時期。

 学生横綱の実績を携えて角界入りし、異例の“幕下10枚目付け出し”でデビューした豊山は、幕内上位に昇進し7勝8敗の負け越しが2場所続いた。いまにして思えば、さすがにプロ(大相撲)の壁にやや苦しんだのだろう。まだ大学出身の力士が珍しい時代だ。叩き上げの先輩力士たちの敵愾(てきがい)心にもタダならぬ気迫があったのだろう。

(学士になんぞ、負けてたまるか)

 そんな殺気だった空気さえあったと後に聞かされた。

 しかし豊山もまた、「相撲の神様」と呼ばれ、歴代最高の69連勝を記録した大横綱双葉山(時津風親方)の元で相撲道を研さんした。幕内5場所目から再び覚醒し、西前頭2枚目で12勝、東関脇で12勝、さらにまた東関脇で13勝を挙げ、一気に大関に駆け上がった。その3場所は連続して殊勲賞と敢闘賞を同時受賞した。豊山を応援する者にとって、その間が最も幸せな、そして短い栄光の時期だった。

 まさか、それからずっと不遇の時代を過ごすなど、想像もしなかった。それからの私には、豊山に泣かされた記憶しか残っていない。

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