「GHQ」キーマンの昭和天皇“免責工作”【新資料発掘】

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裁判長の忖度

 フェラーズが例の「計画」を作成したのは、この玉音放送から1週間後のことだ。最前線から日本にポツダム宣言を受諾するよう呼びかけていた彼は、当然、終戦交渉の経緯を知っていた。それゆえ、天皇を戦争裁判にかけたり、排除したりできないこと、そうしたなら重臣や軍人や政府高官が「だまされた」として抵抗に立ち上がることを知っていた。だから、彼は天皇が免責され、そのまま皇位に留まることを「計画」のなかで想定していたのだ。

 ところが、フェラーズが「計画」に取り掛かろうとしたところ、マッカーサーに呼び出され、「天皇を裁判にかけられるかどうか検討せよ」と命じられた。終戦交渉の経緯を知らないアメリカ上院が45年9月18日に「天皇を裁け」と決議したからだ。 

 マッカーサーの命で、フェラーズは重臣や歴代の総理大臣などに会い、開戦時と終戦時に天皇がどう振る舞ったのか調査をすることになった。これは2013年に公開された映画「終戦のエンペラー」にも描かれている。

 事実と映画が違うのは、「天皇を裁くべきではない」と結論付けた調査報告書(45年10月2日提出)を書く前にフェラーズが実際に会ったのは、東條英機(45年9月25日会見)のみだということだ。残りの木戸幸一(元内大臣)、米内光政(元首相)、鈴木貫太郎(元首相)と会うのは翌年になってからだった。

 ということは、彼は最初から天皇を免責するつもりで、東條と会ったのは単にうわべを取り繕うためだったことになる。マッカーサーも、恐らくはそれを知りながらも、部下の言うがままに45年9月27日の天皇との会見に臨み、部下の勧告通りにすることを決断したのだろう。

 にもかかわらず、マッカーサーはこのあともフェラーズに「証拠固め」を続行するよう命じた。というのも、本国政府から同年11月30日に「天皇は免責されたわけではない。免責するとしても、連合国の代表を説得するために証拠をできるだけ集めておかなければならない」と通達が来ていたからだ。フェラーズが翌年になって、木戸、米内、鈴木と会見を重ねるのはこのためだったのだ。

 予想通り、ソ連、中国ばかりか、オーストラリアなど連合国のうちの何カ国かは、天皇を戦争犯罪者リストに入れ、裁くことを主張した。だが、極東国際軍事法廷の裁判長ウィリアム・ウェッブは、この主張にほとんど取り合わなかった。

 あまり知られていないことだが、マッカーサーがフィリピンから撤退してオーストラリアのブリスベーンにいた頃、そこで知り合ったのが同地の最高裁判所長官のウェッブだった。このコネクションゆえにオーストラリアの地方都市の裁判官に過ぎなかったウェッブが、極東国際軍事裁判の裁判長になる名誉を得たといえる。本国は天皇を裁けと言っているのに、ウェッブがこれを無視したのは、任命者であるマッカーサーに忖度したからに違いない。

 フェラーズの聞き取り調査のあと、重臣と軍幹部は、天皇が日米開戦に否定的だったこと、ゆえに責任は自らにあることを認めた。これに彼らの下の政府関係者も軍関係者もならった。それをCIEの統制下にある新聞、ラジオ、ニュース映画が報じた。どこまで計算していたかはわからないが、フェラーズは天皇免責工作によって、その後のWGIPをも成功に導いたのだ。

有馬哲夫(ありまてつお)
早稲田大学教授。1953年生まれ。早稲田大学卒。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。メリーランド大学、オックスフォード大学などで客員教授を歴任。近著に『日本人はなぜ自虐的になったのか 占領とWGIP』。

週刊新潮 2020年8月27日号掲載

特別読物「『東京裁判』免責工作に新資料! 『昭和天皇』救済の裏に『GHQ』キーマンの深謀」より

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