「GHQ」キーマンの昭和天皇“免責工作”【新資料発掘】

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「国体護持」を巡る攻防

 実は、これは天皇の重臣たちに伝わっていた。45年6月8日、内大臣木戸幸一が天皇に奉じた「時局収拾ノ対策試案」にはこうある。

「敵側の所謂(いわゆる)平和攻勢的の諸発表論文により之を見るに、我国の所謂軍閥打倒を以って其の主要目的となすは略(ほぼ)確実なり」

 つまり、敵方の日本に対する呼びかけを見ると、主目的は軍閥打倒で、皇室廃止ではないことは確かだというのだ。

 そこで最高戦争指導者たちは「皇室の御安泰、国体の護持てう至上の目的」を達成するため、「天皇陛下の御親書を奉じて仲介国(ソ連)と交渉す」と決定している。天皇と皇室の安泰のため、軍閥を犠牲にし、ソ連の仲介により戦争の幕引きをしようということだ。

 グルーの方は、さらに一歩踏み込んで、自分の考えを日本に対する降伏の呼びかけにしようとした。これが日本に降伏条件を提示するポツダム宣言となっている。彼はその第4条で「軍国主義者」を厳しく非難し、戦争責任を負わせる一方で、第12条は「日本人が日本国民を代表する責任ある平和的政府を設立したならば連合国軍は速やかに撤退する。このような政府が二度と侵略を希求しないと世界が完全に納得するならば『現皇室のもとでの立憲君主主義を含めてもよい』」としていた。これによって軍国主義者は厳しく処罰するが、皇室は残すというメッセージを送ろうとしたのだ。当然、最前線にいたフェラーズも、このポツダム宣言受諾を日本側に伝えることに全力を挙げた。

 ところが、45年7月26日にこの宣言が実際に出されたとき、第12条の皇室に言及した部分は削除されていた。この10日前に原爆の実験が成功していたため、ハリー・S・トルーマン大統領は、今や絶対優位にあるのに、この部分を残すとアメリカ国民に妥協ととられ、反発を買うと恐れたのだ。

 日本側では、鈴木貫太郎首相がこの皇室維持条項なしのポツダム宣言をいったんは「黙殺」したものの、8月9日にソ連が参戦してくるにおよんで、天皇の強いイニシアチブのもと、御前会議で「国体護持」のみを条件として宣言を受諾し、降伏することを決定した。電報では「宣言は天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求は之を包含し居らざる了解の下に日本政府は之を受諾す」という一文にその意味が込められていた。

 アメリカ側のジェイムズ・バーンズ国務長官は、これに対し、「占領と同時に天皇の国家統治の大権は連合国軍最高司令官のもとに置かれる」と回答した。これまでの通説では、日本側はこのバーンズ回答を受諾して降伏したとされてきた。しかし、交渉を仲介したスイス政治省の公文書(スイス連邦公文書館所蔵)を私が調査したところ、そうではないとわかった。日本側の回答は、要約するなら「天皇はその大権のもと連合国軍最高司令官の占領統治に協力する」だった。

 要は拒否回答。これには終戦交渉を仲介していたスイス政治省もバーンズも驚いたが、さらにやり取りして交渉が決裂するのを恐れて、バーンズは「ポツダム宣言を受諾したものとみなす」と日本側に一方的に通告し、「日本は宣言を受諾して降伏した」と勝手に8月14日、記者発表してしまった。

 一方、日本側も「国体護持」と「天皇の大権のもとに占領に協力する」が受け入れられたものとみなして、8月15日に玉音放送を流した。だから、天皇は放送のなかで「朕はここに国体を護持し得て」と述べ、自らの主張をアメリカに飲ませたという確信を示している。

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