【終戦記念日】「三船敏郎さんのセリフに二度、号泣した」 俳優「黒沢年雄」が明かす「日本のいちばん長い日」秘話
日本映画界を代表する錚々たる俳優陣
今年の8月15日、日本は77回目の終戦記念日を迎えた。だが、ロシアによるウクライナ侵攻や覇権主義を強める中国をはじめ、人類が戦争を克服したとは言い難い。そんな混沌とした時代に改めてご覧頂きたいのが、1967年公開の映画「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)だ。日本がポツダム宣言を受諾し、玉音放送が流れるまでの経緯を豪華キャストで描いた本作で、戦争終結に反対する青年将校を演じたのが俳優・黒沢年雄(78)だった。庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」にも影響を与えた超大作映画の知られざるエピソードを、黒沢が語り尽くす――。(前編/後編の「前編」)
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【写真】紫煙を燻らす三船敏郎、若き日の加山雄三ら銀幕スターが勢ぞろい
「日本のいちばん長い日」が撮影された当時は、東宝に若手の男優が少なかったんですね。僕は1964年にオール東宝ニュータレント(東宝ニューフェイスから名称変更した新人オーディション)に受かったんですが、映画男優で採用されたのはひとりだけ。そこで、後に東宝映画の社長になる、プロデューサーの藤本真澄さんが僕に白羽の矢を立てた。藤本さんからは「お前は三船敏郎、加山雄三に続くスターになれる」と言われてね。まぁ、その期待には応えられたとは言えませんけれど(笑)。
とはいえ、映画が公開された1967年といえば、僕はまだデビュー3年目の23歳。内職しながら学費を払ってくれた母親が高校1年生の時に亡くなり、それまで打ち込んでいた野球部を辞めてからは自暴自棄になって、ケンカに明け暮れる時期を過ごしたこともありました。とにかく有名になりたい一心で映画界に飛び込んだので、演技のイロハも分からない。藤本さんには「主役で1本100万円のギャラが貰えるようになったらスターだ」と言われましたが、そんなギャラには全く手が届かない状態でした。
それなのに、共演する俳優たちは日本映画界を代表する錚々たるメンツばかりでしょう。三船敏郎さんにはじまって、志村喬さんに笠智衆さん、加山雄三さん――。東宝の俳優だけではキャストが足りないから、新劇や新派といった舞台の人気俳優まで駆り出していた。最初にこの映画の話をもらったときは“マズいことになったな……”と思いましたよ。演技力では誰にも太刀打ちできないと分かりましたからね。
「もう一度、三船さんにセリフをお願いできないでしょうか!」
〈当時の銀幕を彩る豪華キャストが一堂に会した超大作だったわけだが、名立たるスターや実力派俳優に囲まれながら、黒沢扮する畑中健二少佐は、観る者に鮮烈な印象を刻み込んだ。1945年8月14日深夜から15日にかけて、畑中少佐ら一部の陸軍将校は日本の降伏に反対して宮城(皇居)を占拠。玉音放送が録音されたレコードの奪取を画策する、いわゆる「宮城事件」を起こす。首謀者のひとりである畑中少佐を体当たりで演じた黒沢の芝居は、いま観ても鬼気迫るものがある。そして、黒沢が忘れられないと語るのは、共演した三船敏郎(公開当時47歳)とのエピソードだ〉
御前会議でポツダム宣言を受諾することが決まった後、三船さん演じる阿南惟幾陸軍大臣は、陸軍将校たちに向かって「御聖断はくだった」「この上は、ただ大御心に添って進むより他に道はない」「不服な者は、この阿南の屍を越えていけ!」と説くんです。その時、嗚咽を漏らしながら号泣する僕の表情がズームアップされます。ストーリー前半の象徴的なシーンですが、まさにこのシーンの撮影時に、三船さんとの忘れられないやり取りがありました。
作品中ではひとつのシーンに編集されていますが、撮影カメラがひとつしかなかったので、三船さんが将校たちに語りかけるカットと、僕が号泣するカットは別撮りだったんですね。最初に三船さんの迫真の演説シーンに立ち会ったときは、すぐに感極まって涙が溢れましたよ。でも、その後に助監督が三船さんのセリフを読み上げて、それに合わせて僕が泣くカットの撮影があってね。そうなると、全く感情が盛り上がってこないんだ。何回やってもダメで、これには参りましたね……。
そこで僕は岡本監督に直談判したんです。「さきほどの三船さんの芝居は本当に素晴らしかった。もう一度、三船さんにセリフをお願いできないでしょうか!」って。さすがに岡本監督も困り果てていましたよ。たとえ監督であっても、“世界のミフネ”にそんなお願いはできない。でも、無鉄砲な新人俳優の声が聞こえていたんでしょうね。三船さんが「よしっ、オレがやる」と言ってくれた。そして、実際に三船さんがセリフを読み上げた瞬間、僕はワンワン泣いていましたよ。あれには本当に感動しましたね。
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