11人圧死の「明石歩道橋事故」から21年 遺族が “悲しいだけ”じゃない本を出版した理由
何度も出版計画はあった
「起きるべくして起きた事故、ということは、防ぐことができたということ」と話す佐藤健宗弁護士は「本を出す話は早くからあったのですが、立ち上がりかけたら福知山線の大事故が起きたりして進まなかった」と振り返る。佐藤弁護士は、JR福知山線脱線事故の遺族代理人や、信楽高原鉄道の遺族が結成した「鉄道安全推進会議(TASK)」の事務局長としても歩道橋事故の遺族を支えた。
だが「事故の再発防止は事故を風化させないことに尽きる」が口癖だった渡部吉泰弁護士は、本の完成目前の6月に67歳で亡くなった。
事故翌年、筆者は『週刊金曜日』(2002年2月22日号)で「明石花火大会将棋倒し事故 その後」と題したルポを書いた。文末で「自治体のイベントぶち上げ、民間への丸投げ委託、空虚な前評判への妄信、開発行政と無用の構造物、硬直発想の安全策、皮膚感覚ゼロの警官、責任たらい回し、翻って事件は、現代日本社会の制度疲労や歪みを凝縮したような悲劇ではなかったか」と記した。手前みそだが、今回の本はこれをそのまま炙り出してくれた。多くの人の証言を交え、年表や資料、新聞記事なども豊富。400ページの労作には現代日本社会の病理が浮き彫りになっている。
明石市は警備会社に丸投げ
取材で思い出すことがある。
事故の3日後、悲しみをこらえて下村さんが記者会見した。阿鼻叫喚の中、写真の如く詳細に現場の状況を覚えていることに仰天した。挨拶して伺うと「俺、保険の仕事しとって、交通事故とか火事とかの現場をよう見たりするから、ああいう場面は覚えるんや」
後日、自宅に取材に行くと、「団子三兄弟の真ん中が抜けてもうたんや」と話しながら、智仁ちゃんの3歳の誕生日プレゼントにするはずだったラジコンカーを見せてくれた。
主催者の明石市は、警備会社の「ニシカン」に警備計画を丸投げしていた。同社は前年大晦日のカウントダウンイベントの警備計画書を丸写ししたが、人出は花火大会の3分の1程度だ。さらに同社は、事故直後「茶髪の若者」が橋の上を駆け回ったのが事故の原因、とガセ情報を流し、新聞も一部、飛びついた。
「あの時、真相が隠されると直感しましたね」(下村さん)
当時、あれだけ多数の人が乗ってよく橋が壊れなかったものだ。朝霧駅は各駅停車 の列車しか止まらず、下は快速や新快速がぶっ飛ばす。橋が壊れたら、と想像するとぞっとした。
遺族たちは子どもを助けられなかった「自責の念」に苛まれた上、発生当時から「幼い子をそんなところに連れて行くからや、自業自得」などという中傷もあった。花火を見に行って圧死するなど誰も考えまい。
ただ、筆者もひやりとした経験はある。2000年12月、神戸市で子ども2人を連れて阪神・淡路大震災の追悼イベント「ルミナリエ」を見に行った時だ。午後5時の電飾が点灯する瞬間を見るべく並んだが、想像を超えたすさまじい人の圧力を感じた。「崩れでもしたら子どもが大けがする」と危険を感じて我が子の手を引いて必死に脇へ逃れ、点灯場面を見ることは断念した。歩道橋事故が起きたのは翌年夏だった。以後、ルミナリエは長い導線を設置してぐるぐると大回りをさせるように変わった。ルミナリエなら逃げられるが、線路を跨ぐ歩道橋では逃げようがない。
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