11人圧死の「明石歩道橋事故」から21年 遺族が “悲しいだけ”じゃない本を出版した理由

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 2001年7月21日夜。兵庫県明石市の歩道橋で群衆雪崩事故が起き、花火見物客11人が死亡した。重軽傷者247人。死者全員がいわゆる「圧死」で、子どもが9人、高齢者が2人だった。惨劇から21年。遺族と弁護士の有志が事故や裁判を振り返る『明石歩道橋事故 再発防止を願って ~隠された真相諦めなかった遺族たちと弁護団の闘いの記録』(神戸新聞総合出版センター)が、事故発生の日に合わせ先月21日に発売された。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

アクリル板を叩いても警察は無視

 明石歩道橋事故は、JR山陽本線の朝霧駅から線路を跨ぐようにかかり、花火会場の大蔵海岸につながる「朝霧歩道橋」で起きた。

 花火が終了した午後8時半、帰宅のために駅に向かう人と出店を楽しもうと海岸を目指した人が衝突した。長さ100メートル、幅6メートルの歩道橋に当時、約6000人がいたとされ、なんと1平方メートル当たり最大13~14人の超過密状態だった。海岸への階段が通路の半分の幅しかないことも混雑を招いた。1人の上にアップライトピアノが乗るほどの圧力がかかったというから、幼児や高齢者はひとたまりもない。

 下村誠治さんは、次男の智仁ちゃん(当時2歳)を失った。

「橋から下を見ると警察5人が隊を作って歩いていた。みんな藁をもすがる思いでアクリル板を必死に叩きました。彼らは何度も下を往復しましたが、何もしなかった。智仁に『絶対にここから動くな』と言って、押し潰されている人たちを必死でごぼう抜きにして救助して、戻ったら……」

 この日、明石署は暴走族対策に人員を大量投入し、花火会場にはわずかの警官しか配置せず、橋から携帯電話で助けを求められても動かなかった。

「地面に置かれていた瀕死の息子を抱えて通りかかった警官に助けを求めたら『私は機動隊なので』と去ったんです」(下村さん)

明石署長らの度重なるごまかし

 事故後、主催者の明石市、警備会社(ニシカン・大阪市)、明石署が責任をなすり合ったが、市職員3人、明石署の地域官(警視)とニシカン社員の合計5人が業務上過失致死傷で有罪となる。しかし、遺族らが「警備の最高責任者のはず」と責任を問うた明石署の署長と副署長を神戸地検は不起訴にし、検察審査会が「起訴相当」と議決しても不起訴を繰り返して2人を守った。

 だが、2010年の改正検察審査会法で、審査会による2度の「起訴相当」議決によって「強制起訴」することが出来た。署長は死去したが、副署長は指定弁護士が検事役をつとめる「強制起訴」の全国第1号となった。その後、副署長は責任を署長に押し付け、「公訴時効」で免罪となった。

 花火の時間、明石署で橋の様子をモニターで見ていた署長らは「録画し忘れた」と主張した。花火大会当日に明石署を取材していた神戸新聞が、橋の上が映るモニターカメラや、VHSの箱まで映しているのにも関わらず、である。今度は「テープを紛失した」とごまかした。

 遺族らは「2人は危険を十分に承知しながら(自ら)行きもせず、(署員を)行かせる指示もしなかったことが明確になるために、テープを隠した」と見る。

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