帰省をきっかけに恋心が再燃して… 無意識のうちに不倫を始めてしまった52歳男性の恐怖体験
「おかあさん、ハルちゃんがやっと来てくれたよ」
その年の夏が新盆となったため、彼は実家に戻ってみた。夜中にこっそり抜け出して彼女の家に行った。ちょうど前日まで子どもたちが来ていて、法要も終わったところだと彼女は笑顔を見せた。
「お線香を上げて手を合わせると、彼女が『おかあさん、ハルちゃんがやっと来てくれたよ』と。『お母さんがこんなことになる少し前、ハルちゃんとつきあっていることを言ったの。そうしたらお母さんが喜んでくれたんだ』と言うんです。結婚外の関係を親が喜ぶわけがないと思ったのを覚えています」
その後、夜も更けていたが、彼女はドライブに行こうと言い出した。このところ仕事で忙しかったし、新盆の準備もあったからなんだか気持ちがすっきりしなかった。きれいな夜景が見たい、とせがまれて、彼も彼女の母親の写真を前に、家の中にふたりきりでいるよりはいいかもと外に出た。
「彼女の車に乗って、近くの山のほうへ出かけました。夜景のきれいなところがあるんですよ。彼女は運転しながら話すんだけど、その話が何を言っているのかよくわからないところがあって、僕は生返事していたんです。そうしたら彼女がいきなり怒って『ちゃんと聞いてる?』と怒鳴った。びっくりして彼女の顔を見ると、目が少しおかしかった。静かに『やっぱり戻ろう。お腹がすいたから、ファミレスでも行こうか』と気持ちを変えようとしたら、彼女が突然、『私と一緒に死んでよ』とアクセルを踏んだんです。その道は僕もよく知ってるけど、急カーブが多い。ハンドルを切り損ねても、対向車がいても、いずれも一発で終わりです。それなのにアクセルを踏み込むなんて……。どうしたらいいんだろう、死にたくない。とにかく死にたくないと思った」
その先に道の脇にUターンができるようなスペースがあるのを彼は知っていた。そこでとにかく止めさせなければと思ったが、どうしたらいいかわからない。彼女の表情が固まっているのを見て、もう終わりだと感じた彼は、トランスミッションをパーキングに入れた。車が壊れてもかまわない。とにかく死にたくなかったのだ。
「後続車や対向車が来たら危ないので、そのまま少しハンドルを切ったらうまくスペースに入れることができました。彼女はハアハアと息をしているだけ。刺激しないように背中をさすったら、今度は僕の首に手を回してくるんです。『死んでよ』って。あわてて彼女を突き飛ばし、ドアを開けて逃げました」
走りながら110番に通報、すぐに来てもらうことにした。振り向くと、彼女は追ってきていない。今度は彼女が自殺するのではと不安になった。
「元の場所に戻ると、彼女がふらふらと歩いていくところでした。携帯のライトをつけて近づき、後ろから抱きとめると、彼女はわーっと泣きだした」
しゃがみこんだ彼女を抱きしめながら、警察がくるのを待った。
あれから3年経つが…
彼女はそのまま病院に入院した。子どもたちに病院から連絡が行ったが、そのあたりのことを彼は詳しくは知らない。
「彼女の長男から連絡をもらって、一度だけ東京で会いました。母が迷惑をかけて申し訳ない、と。僕のほうこそ彼女を支えられなくてすまなかったと謝りました。『母は、もう二度と男で苦労したくないと、ひとりでがんばってきたんです。でも伊東さんに再会して、肩の力が抜けたようでした』と言われました。彼女、息子さんに僕のことを話していたようです。あちらの家庭に迷惑をかけないようにと言っていたのに、と息子さんは悔しそうでした」
あれから3年近くたつが、彼は今でも、運転席での彼女の一点を見つめた目を夢に見ることがあるという。
「あのときの彼女は、完全にこっちの世界とあっちの世界の境目にいたような気がする。冷たい言い方だけど、道連れにされるのはごめんだというのが本音でした」
その後、彼女は心身ともに回復して退院し、今は大阪にいる次男の近くで暮らしているという。美容師の仕事は続けていると長男から聞いて、ホッとしたそうだ。
「僕とのことをどう思っているかはわからない。彼女の気持ちを惑わせただけだったのかと後悔することもあります。結局、遊びだったのか、逃げたのかと言われたら返す言葉もない。遊びじゃなかった、本気だった。だけど本気イコール結婚というわけでもない。本物の恋愛だったよといつか彼女には伝えたいですね」
もう会うことはないだろうけどと彼は小声でつぶやいた。母親の突然の死によって、彼女の精神状態は危うかったのだろう。だからこそ、「一緒に死んで」という言葉が出たのだろうが、言われたほうにも傷が残ってしまう。恋愛の終わり方として、彼には苦い悔いばかりが残っているようだ。
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